ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?

「さあ」

促され、多恵は幽鬼のように立ち上がった。
とたんに獣の力に引っ張られ、多恵は寝具の上に転がり倒れた。

「あっ」と虚しく零れた唇を、待ちかまえていた唇が吸う。噛みしめた歯を蛙のような舌に押し割られ、思わず吐きそうになって、多恵は首を左右にした。

そうした攻防の間にも、蛸のような手が八つ口から侵入し、胸を鷲掴みにする。
蛸は、ひとしきり乳房を陵辱すると、着物の裾を捲り上げ、すぐに内股を這い上がってきた。

絶望に断崖絶壁から飛び込む覚悟を決めた、そのとき──多恵の脳裏に、玲丞の哀しげな顔が浮かんだ。

〈多恵、僕と東京へ帰ろう〉

次の瞬間、多恵は思いもよらぬ力で、男をはね除けていた。

「何をする!」

尻餅をついた黒川は、こめかみに青筋を立てて怒鳴った。

多恵自身、自分の行動が理解できない。無我夢中の本能が勝手に踵と肘とを動かして、ずるずると明るい座敷へ向かって後退してゆく。

「母娘揃って、同じ目をしやがって!」

黒川は先刻までとは人が変わったかのように、余裕をなくし目を血走らせた。
少年時代の屈辱的な記憶が、若者の凶暴さをも甦らせたのか、七十男の嗜みも恥も忘れ、多恵に躍りかかる。

反動で、多恵は座卓の縁にしこたま頭を打った。銚子が倒れ、酒の匂いが部屋に充満した。

「やめて!」

朦朧とするなかで、多恵は叫び足掻いた。
馬乗りになられ、グローブのような手で口を塞がれ、息ができない。
徐々に体の力が吸い取られていく。

薄れてゆく意識の隅で、コツンコツンと乾いた音が谺した。
朝靄の森に響くアカゲラのドラミングだ。またあの年老いたスジダイを叩いている。

そのとき、入口の襖がパンと音を立てた。

「何だ、お前は! 部屋を間違えているぞ──」

夢なのかもしれない。
次の瞬間、黒川の体が宙に浮き床へ転げたのを、多恵は見たような気がした。
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