ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?

4 『こちらです、姫様』

メインダイニング Pherkad(フェルカド)の厨房は、今日も静かな活気に包まれている。

濱田純平は、グラッセ用の人参からクリッと小さな目を上げて、シェフ・ド・キュイジーヌ・伊佐山修司の手元に瞳を据えた。

真っ白なコックコートに彼だけに許された赤のコックタイ。細身の長身、鰓の張った輪郭とへの字に結んだ寡黙な口が、頑固な職人気質を窺わせる。その悠然と静かな佇まいは、気高い仏師のよう。包丁さばきは剣舞が如く美しく、一切の迷いがない。

彼の手から生み出される独創的かつ奥深いフレンチを食するために、ポラリスを訪れる客は多い。

伊佐山の料理を初めて口にしたとき、純平は全身から笑みがあふれるのを感じた。美味いなどと言葉にすることさえ不遜に思った。

子どもの頃から要領が良く、何でもそこそここなしてしまうせいなのか、己の将来についても真剣になれなかった純平が、矢も楯もたまらず厨房へ押しかけたのが五年前。
実家は料理屋で、物心ついた頃には父親から手ほどきを受けていたから、腕には多少自信があった。でもそんな自惚れは、初日から木っ端微塵に打ち砕かれた。

今も相変わらず下っ端として(主にパシリとして)酷使されているけれど、こうして神の手を間近で見られるなら本望だと、純平は母からの帰参の願いを拒み続けている。

「手を休めるな」

トック・ブランシュを微動だにさせずに金目鯛を引きながら、伊佐山は低く言った。

はい、と返事に被せて、

「純平! 冬瓜はァ!」

怒鳴り声が上がって、純平はコック帽が潰れるのも構わず頭を抱えてしゃがみ込んだ。

こんなとき、小柄で良かったとつくづく思う。
作業台の陰から恐る恐る目を出すと、秋葉旬が脳天から霹靂を飛ばして大鍋をかき混ぜていた。
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