ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?

辰見右一。
光沢のある細身スーツに、ピーチ色のシャツ。首元にはシルクのスカーフ。素足に革靴。還暦を越えても照れのないキザな着こなしは、業界人の特権か。
若作りのヘアスタイルが実は鬘だと言うことは公然の秘で、彼の前で毛にまつわる話題はタブーだ。

「お待たせして申し訳ありません」

多恵が軽く頭を下げると、辰見はふにゃっと笑って片手を上げた。

「ようやく真打ちの登場か。さ、まずは駆けつけ一杯だ。おーい、ドンペリ・ゴールド!」

奥に控える黒服に命じると、辰見は体のバランスを崩したフリをして、隣のホステスにぐいっと寄りかかる。

「きゃ〜、センセ〜!」

嬌声が上がり、多恵の頬が引きつった。
しらふのうちに仕事の話をしたかったのに、この様子だとすでに出来上がっている。

辰見は、とにかく酒癖が悪い。
女好きで見栄っ張りで、セコいから、基本的に自分の金では飲まない。
本人は〈酒豪〉だと言い張ってるが、実際はただの〈しつこい飲兵衛〉だ。

そのうえ能書きの多いセンセイは、酔うと自画自賛の独演会になる。

だけど──。

元テレビプロデューサー、演出家、作家、評論家、有名大学客員教授、と数々の肩書きを持ち、最近ではワイドショーのコメンテータとして茶の間を賑やかしている。その宝の山のような彼の人脈は、多少のことには目を瞑ってでも、利用しない手はないのだ。

多恵は同席している男に、「ありがとう」と「ごめん」を乗せた目くばせをして着席した。

夏目陽斗。
エキゾチックな顔立ち。落ち着いた低音で話す口調は、まるで詩でも朗読しているかのよう。
社内でも女子社員からの人気はダントツ。 でも、本人はどこ吹く風。そういうところもまた、人気の理由かもしれない。

多恵とは同期。ディレクター昇進は多恵の方が早かった。
近いうちにどちらかが、プリンシパルに昇格するだろうと噂されている。

一番のライバルで、パートナーで、誰よりも信頼できる理解者だ。

「さあさあ、人を待たせた罰だ。一杯いっとけ、いっとけ!」

辰見自らシャンパングラスになみなみ注いで、にやにや薄笑っている。

悪い酒だと心の中で呟きながら、多恵は然らぬ顔で一気に呑み干した。
禁酒の誓いを立てたばかりだと、数ミリの呵責がのどを刺激した。
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