ホテル ポラリス 彼女と彼とそのカレシ？

そこは、ホテル街のネオンから一本裏へ入った、薄暗い路地だった。

ビルの谷間に押し潰されるように、間口一間・二階建ての小汚い家が、辛うじて建っている。まるで地上げの生き残りだ。
軒先では「蕎無庵」と書かれた絵馬型の看板が風に揺れていたが、その存在に気づく者はまずいないだろう。

多恵は呆れた。
カウンター席に椅子が六脚。通路が狭すぎて、これでは立ち食い蕎麦屋の方がまだましだ。

「あっ、藤崎さん！　お疲れっす」

隅っこで冷や酒をチビチビやっていた金龍柄のアロハ男が、律儀に立ち上がって一礼する。

──アイタッ。

多恵は内心で舌打ちした。 その筋の人間だったのか──。

とりあえず、彼の姓が〝フジサキ〞であることはわかった。

「タカさんは？　奥？」

フジサキは、多恵のために椅子を引きながら、強面相手に怯みも見せず訊ねる。

「すみません。また、社長が無理言いまして。もう終わると思いますが……」

「仕方がないなぁ。──ユキさん、日本酒はいけますか？」

「え？　ええ、まあ……」

多恵は胡乱気に、カウンターの内に回り込み勝手に酒棚を物色する姿を目で追った。

手にしたのは純米吟醸あずまみね。玻璃の丸銚釐と志野風のぐい飲みをチョイスするところなんぞ、なかなかの通だ。

それにしても、この店の身内なのか、それともセルフサービスの店なのか、手慣れている。

「おや、玲丞、来てたのかい」

しゃがれた歯切れのいい声と共に、引き戸の奥から一人の老女が現れた。

作務衣姿に、シャキッと伸びた背筋。シャンとした所作は江戸っ子の気っぷの良さを感じさせる。

彼女は新客に目をやると、三秒ほど品定めをするような目をして、意味深にほくそ笑んだ。

「待たしてすまなかったね。社長によろしく言っとくれ」

金龍アロハは恭しく両手で紙袋を受け取ると、窮屈な通路を多恵に恐縮しながら出て行った。
夜の道玄坂、怪しげなやりとりに、あの中身は本当に蕎麦だろうかと、よからぬ想像すらしてしまう。