ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?

2 『ゼネラルマネージャの幸村多恵さんは?』

「わおぅ!」

静まり返ったロビーフロアに、欧米風の感嘆が響いた。
モデルのような女性が、黒いサングラスを頭の上に載せながら、正面奥の硝子越しに広がる蒼海に見惚れている。

──そう、このパノラマこそが、ホテル・ポラリスの真骨頂なのですよ。

桜井菜々緒は、密かに得意げな笑みを浮かべた。

前庭の地中海式庭園も、もちろん素晴らしい。
花々に彩られ、ほのかにアロマが香る大理石のロビーは、シンプルながら三つ星ホテルにも引けを取らない優雅さだ。

けれど──
この、まるでエーゲ海の絵はがきのような絶景を前にすれば、すべてが霞んでしまう。

水平線まで広がる、果てしない大海原。
男性なら、その鮮麗な碧に果てないロマンを。
女性なら、哀しいほど深いブルーに、切ない恋を想うかもしれない。

「どうぞごゆっくりご堪能くださいませ」と、夜会巻きの襟足にそっと手を添えたその時──

カツン。
乾いたヒールの音が、静寂を断ち切った。

──え? もう?

女性にしては、淡白だ。
初めてのゲストなら、たいていは窓際まで足を運び、写真に収めたりするものなのに。

「ようこそお越しくださいました。ご宿泊でいらっしゃいますか?」

菜々緒は、一瞬の戸惑いを、穏やかな笑顔で包み隠した。
面長な顔立ちに、強い目力。目尻と口元はきりりと上がり、上品ながらも一歩間違えばキツさを感じさせる── それを帳消しにしてくれるのが、鼻にかかったやわらかな美声だ。

「ええ──」

女は短く答えると、焦れたように尖った顎を上げて振り返った。
つられて視線を向けると、車寄の先に男性の後ろ姿があった。

男はロータリーの中央に立つ山桜を見上げている。

目通周は三メートルを超えるホテルのシンボルツリーで、この地がまだ森だった頃から自生していたという老木だ。
とはいえ、今はただ涼しげな葉陰を地面に落としているだけ。

虫でも見つけたのかしら──
首を傾げかけた菜々緒の耳に、無遠慮な舌打ちが飛び込んできた。

「ちょっと、君。呼んできてくれない?」

「あ、はっ、はいっ! ただいま!」

大和はビクッと直立し、茹で蛸のように真っ赤な顔で駆け出していった。
女は腕を組み、冷ややかに斜に構えている。

──あ〜あ、大和くんってば、ほんとチキン。 いじめがいがあって、ゾクゾクするわ。

含み笑いを、フロント・オフィス・マネージャーの本多隆也に見咎められ、菜々緒は「しまった」と内心でつぶやきつつ、気を引き締めて胸を張り、微笑みを整えた。
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