ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?
男はロータリーの中央に立つ山桜を見上げている。

目通周三メートルを超えるホテルのシンボルツリーで、ここがまだ森だった頃から自生していたかなりの老木だと聞くけれど、今の季節は地上に涼しい葉陰を落としているだけ。

虫でも見つけたのかしら? 首を傾げた菜々緒の耳に、無遠慮な舌打ちが聞こえた。

「ちょっと、君、呼んできてよ」

「あ、はッ、ハイ! 只今すぐに!」

大和はビクリと気を付けをして、茹で蛸のように赤くなった顔で駆けて行く。
女は腕組みをして斜に構えている。

──あ〜あ、大和君ってばほんとM。ゾクゾクしちゃう。

含み笑いをフロント・オフィス・マネージャ・本多隆也に見とがめられ、菜々緒はしまったと胸を張って口角を上げた。

「ようこそ、ホテル・ポラリスへ」

ようやく揃ったゲストに、本多と菜々緒は一糸乱れぬ呼吸で会釈をした。

「予約した藤崎です」

本多は背筋をピンと伸ばした頑固な姿勢で恭しげに頷いて、

「お待ちしておりました、藤崎様。ご予約はロイヤルスイートをお一部屋、本日より31日までのご滞在と承っております」

艶のあるバリトンで唇をあまり動かさない独特な喋り方。方正謹厳を絵に描いたような顔立ちに清潔な七三分け。
職務上なのか本人のこだわりなのか、彼だけがアロハシャツのユニフォームではなく、真夏でも黒のタキシードを涼しい顔で着用している。

控えめで誠実な微笑みを何時如何なるときにも失わないジェントルマンぶりは、英国老舗ホテルのバトラーにも引けを取らないのに、どうしてこんな片田舎のホテルにいるのか、菜々緒には不思議でならない。

名門ホテルの総支配人だったという噂の真相を、本人に直接確かめてみたこともあったけれど、肯定でも否定でもないホテルマンのお手本みたいな微笑みでかわされてしまった。

彼を雇い入れたGMも、その辺りのことには絶対に触れないから、きっと深い事情があるのだろう。

「お手数ですが、宿泊カードのご記帳をお願いいたします」

菜々緒が男へ差し出した万年筆を、女がサッと横からかすめ取った。

女はペンを走らせ平然と、

「ねぇ、ここ、エステある?」

「残念ながら当館にはございません」

「なぁんだ、しけてるのねぇ」

──藤崎玲丞(りょうすけ)様とカオル様、ね。

書き殴った字で、住所もすらすらと書いてはいるけれど、〝成城〞とはいかにも眉唾物だ。
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