ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?

5 『打算抜きに純粋に恋愛できるのなんて、二十歳までよ』

その日は晩から霧雨になった。朝からずっとぐずついていたけれど、夕方には雲の切間に夕焼けも覗いていたので、思いがけない雨だった。

「厭な雨……」

マホガニーのバーカウンターに物憂げに頬杖をつく司に、グラスを磨く手を止めて、理玖はほうっと息をついた。

艶やかな唇と優しげな垂れ目、右目の下にある小さな泣きぼくろ、ふんわりとアップにした首筋が細く白い。シンプルな黒のナローワンピースに不可侵なエロスを漂わせている。

程よく照明を抑えたシックな木目調の店内には、古いジャズバラードが流れている。
いつも静かな店だけど、給料日前とはいえ一組も客が来ないなど、四年前のオープン以来初めてのことだ。
こんな日もあると動じない司でも、さすがに暇を持てあましていたところに、格好の相手が飛び込んできた。

「ああ、降られた~」

「お帰りなさい! ユキさん」

しっぽりと濡れた髪をハンカチで拭いながら、多恵は止まり木の端から二番目の指定席に腰を降ろして、眉根を寄せた。

「どうしたの? それ」

司の左手首から甲にかけて、包帯が巻かれている。

「ひったくりに遭って、転んだンすよ」

間接照明に浮き上がった酒棚からドライジンのボトルを下ろす理玖は、真冬でも白いTシャツにジーンズ姿。
ただでさえ寒そうなのに、今どきの若者の美意識なのか腰骨が浮くほどのスリムさに、同い年の弟を持つ多恵としては、栄養失調ではないかといらぬ心配をしてしまう。

塩顔がよけい貧相に見えるけど、これでも私立の医大に在籍するおぼっちゃまだ。

元々は、彼も客の一人だった。学生の分際で通い詰めていると思っていたら、いつの間にかバーテンダーとして居着いていた。
下戸のくせに今では一丁前にシェーカーを振るのだから、青年の恋心というのは形振り構わず熱い。

是非もなく、今期も卒業できる可能性は薄く、長野で総合病院を経営している両親を嘆かせることになるだろう。

「怖いわねぇ。犯人は? 捕まったの?」

鮮やかに檸檬を搾る手元に、多恵は口を窄めた。

「相手はバイクっすからねぇ。このくらいの怪我で済んだからよかったけど」

「よかないわよ!」

司が調理場の配膳口から怒り声を発した。

「お財布に厄除けのお守りを入れてたのに。正月に大枚叩いて厄払いしてもらったって、ちっとも御利益がないんだから。ユキみたいな罰当たりは、よっぽど気をつけないとね」

「私のどこが罰当たりよ」

心外だと多恵は口を尖らせた。

「父親の七回忌にも帰らない娘がどこにいる?」

多恵は苦々しくそっぽを向いた。
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