ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?
多恵は子どものように目を瞑った。
今までの言動からみて、温和なひとで他人を激怒させるような言を吐くとは考えにくいのに、そんなに言いにくいことなのか、藤崎はなかなか言い出さない。

焦れったくなって、薄目を開けたとき、大きな影が前を覆って、唇に温かいものが触れた。一瞬のことだった。

「思い出しました?」

伏し目がちに尋ねる藤崎に、多恵は何が起こったのか理解できないと眉間を皺めた。

「埠頭で夜景を見ていたんだけど」

多恵は小首を傾げた。

「もう一度したら、思い出すかもしれません」

大真面目な申し出に、藤崎は一瞬驚いた顔をして、それからフッと笑った。

ぎこちなく唇が重なった。坪庭の睡蓮鉢の水面に繊月が捕まっている。

──ああ、埠頭だ。

波間に揺れる港の灯り。男の指が女の唇についたクリームを拭った。見つめ合ったまま触れた唇が、クリームよりも甘く優しかった。

それが刷り込みによる想像なのか、記憶の回復なのかは定かではない。

藤崎は多恵の背中を抱きしめ大きく息を吐いた。

「思い出した?」

多恵は藤崎の胸のなかで小さく頭を振った。

破裂しそうな鼓動が、頬に伝わってくる。それが彼のものなのか、自分のものなのかわからない。
はっきりしていることは、ふたりが今、とても不安定な状態にあるということだ。どちらかが少しでも身動きすれば、均衡はいとも簡単に破られる。

そうなることを期待して彼を部屋に誘ったのか、裸の女に指一本触れなかった草食系にそこまでの勇気はないと招き入れたのか、いったい自分は進みたいのか引き返したいのか。
いっそのこと、一気に押し倒してくれないだろうか。

心が伝わったかのように、ふと、縛めが解けた。

三度目のキスはこれまでとは違う。互いに唇を食み、舌先が触れあう。
キスだけで、カラダが溶け合う予感がした。もう引き返せないと多恵は思った。

唇が首筋を辿った。

「こんなことまでしたの?」

「……いいえ」

藤崎は頬を緩ませ、お喋りを封じるように瞼にそっとキスをする。

体を横たわせるタイミングも、ボタンを外す指先も意外に手慣れていて、何だかうまいこと一杯食わされたような気がする多恵だった。
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