ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?

7  『生きている人間はつらいはね。美化された死者と常に比べられる』

ドアを開けると、玄関マットの上ではなが行儀よく出迎えていた。
多恵に続いて玲丞の姿を見ても逃げる気配はない。それどころか長い尾っぽをぴーんと立て足元に頭をすり寄せている。

「お腹がすいているんだね?」

キッチンで玲丞が餌皿にキャットフードを入れてくれるのを、はなは尻尾をくねくねさせながら温和しくお座りをして待っている。

あれほど人嫌いのはなが、なぜか玲丞には懐いていた。もっとも、自分の家来か子分だと思っている様子だけれど。

多恵は、脱いだコートを衣紋掛けにかけ、点滅している留守番電話の再生ボタンを押して、窓辺の白いカウチに足を載せて座り込んだ。

〈多恵さん、静枝です〉

静かな少し寂しげな声に、小鉤を外しかけた多恵の手が、ピクリと止まった。

〈お変わりありませんか? 今日、山岡さんから戴いた蜜柑を送りました。こちらはみな元気でやっています。多恵さんもあまり無理をして体を壊さないでくださいね。それから──〉

物言いたげな間があいて、〈一度こちらへ〉と語尾を消し、再生終了を告げる音がした。

「間違い電話?」

顔を向けると、玲丞はテーブルでシャンパーニュの栓を抜きながら、足元をスリスリするはなに困ったようなデレ顔をしていた。

多恵は答えにくさを誤魔化すために、帯締めを緩めながらそっけなく言った。

「いいえ、実家から」

「でも、タエって……」

五つくらいの疑問符を並べた間を置いて、「ええっ?」と素っ頓狂な声が上がった。

音を立てて吹っ飛んだコルクを、ゴールドの瞳が野生の本能を取り戻し、必死に追っている。

「ユキって、名前じゃないの?」

今さらと顔を向けて、それから狐に撮まれたような玲丞の表情に、多恵は呆れた。

「ユキは苗字からとった渾名よ。本名はユキムラ・タエ」

確かに、司に倣ってザナデューの客たちも「ユキ」と呼ぶし、マンションの表札にも苗字しか掲げていないから、ユキが名前だと思いこんでいても仕方がない。

それにしても、今まで気づかなかったとは、やはり脳天気だ。

「どうやって書くの?」

「幸せな村で多いに恵まれる。欲深い名前よねぇ」

「いい名前だね」

「古臭いでしょう?」

「そうかな? ──多恵」

「やめてよ」

多恵を名前で呼び捨てにできるのは、亡くなった祖父母と父母だけだ。どんなに親しい間柄でも〝多恵〞と呼ばせたことはない。

玲丞は多恵の横に腰掛けると、少し得意げにグラスを差し出した。

クリュッグ クロ・ダンボネ、こんな高級シャンパーニュ、見栄を張ってと呆れるけれど、きっと今宵のために奮発してくれたのだと思うと、嬉しい。
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