ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?

2 『頼むから、母さんをもう解放してやってよ』

──私にポラリスを潰せなんて、よくもそんなことを!

「姉ちゃん!」

背後で航太の声がした。
今は誰の顔も見たくない。しょせん、みな他人だ。多恵の亡き母に対する想いを理解できるわけがない。

「待ってくれって」

航太はしつこい。幼い頃からそうだった。

静枝は、多恵の母が亡くなると同時に、旅館とホテルの女将となった。航太は三歳。まだ母親が恋しい幼な子だ。寂しさにいつもぴいぴい泣いていた。

父は優しいひとだったけど、口下手で不器用で、実の娘にもベタな接し方ができないひとだったから、航太に対しても同様だったと思う。

結局、航太が甘える先は、多恵しかいなかった。
どんなに邪険に突き放しても、泣きながら後を追ってくる。甘えん坊な子犬みたいで、いつも多恵の方が根負けしてしまうのだ。

考えてみれば航太だけが、血筋や血縁関係に頓着せず、姉弟として関わってくれているのかもしれない。

「話を聞いてよ」

待合室を憤然と突っ切る多恵に、行き交うナースや患者たちが驚いたように振り返って行く。
松葉杖の少年がバランスを崩したのを、航太が寸でのところで救い上げた。

「頼むから、母さんをもう解放してやってよ」

多恵は聞き捨てならないと、航太を振り返り睨みつけた。

「私が、いつ、あのひとを縛り付けたって言うの?」

「姉ちゃんがじゃなくて、幸村の名前がさ」

言葉の衝撃と外の陽差しの眩しさに、多恵は目を細めて足を止めた。

中庭の花壇をチューリップやパンジーが賑やかに飾っている。外周道路の桜並木から、薄紅色の花びらが風に乗って運ばれて、多恵の足元に舞い落ちた。
< 66 / 154 >

この作品をシェア

pagetop