ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?
4、カンナビの斎人

1 『男の人には祟るのよ』

「シイノキ……、カエデ、イチイ……、ミズナラ……」

多恵は目に映る樹木の名を愛おしげに呟きながら、早朝の斜光が剣のように差し込む、踏み跡すらない森の奥を歩いていた。

季節が巡り、あれほど賑やかだった蝉の声も今は静か。遠く近くから鳥たちの挨拶が響き、緑白色の姥百合には黒アゲハがそっと羽を休める。アカガシの陰からは、雄鹿がじっとこちらを窺っていた。

涼やかな湿気を孕んだ空気、生き物たちの微かな息づかいがあちこちから感じられる。草花や土の深い匂いが、鼻梁をゆっくりと満たしていく。

ここは、昼間でも薄暗い原始の森だ。

一見、勝手気ままに生えているように見える植物たちも、実は太古からの秩序と法則をしっかりと守っている。
高い木はさらに高く枝を伸ばし、低い木はわずかな光を求めて葉を広げる。古木は朽ち倒れ、新たな命に場所を譲る。
人の手など借りなくても、自然は賢く力強く、ひとときも無駄なく循環している。

森に身を置くと、どんなに小さな生き物たちも、それぞれに役割があることを感じる。
植物は蜜や樹液で虫たちを育み、虫たちは動物たちの命を支えている。代わりに鳥は種を運び、動物はその命を土に還して、森に新たな栄養を与える。

対して人間は、ただ森から恩恵を受けるだけ。必要ならば搾取し、邪魔ならば切り捨てる。

先祖が大切に守り続けた森も、ついに人の都合に利用されるのか。
抗う力を持たない自分が、多恵は情けなかった。もし祖父が生きていたなら、きっと屈しはしなかった。

頭上で懸巣たちがけたたましく鳴き、森の奥へと散っていった。

〈あの鳥、何か分かる?〉

〈雀でしょう?〉

〈はずれ、あれはホオジロ。雀より少し大きい。〝チョッピーチチロ・ピピロピィー〞って鳴くんだ──〉

〈ほら、〝ちゅんちゅん〞って鳴いた。都会の雀は太ってるのよ〉

多恵は思い出に寂しく笑うと、しめ縄が渡された霊木にそっと手を置いた。

「ブナ……」

大樹だ。
苔むした幹は、大人三人が腕を回しても届かない。樹齢は五百年。
根元の若木を自らの命に取り込みながら生き長らえたため、灰白色の樹肌は波打つようにねじれている。老木らしい風格で、幾本も広がる枝には、豊かな緑が層をなして、天蓋のように空を覆っていた。

そっと耳を当てる。
辺りの空気はひんやりとしているのに、木肌は温かく、微かな鼓動が水の流れのように伝わってくる。

地上に目を凝らすと、葉を透かして差し込んだわずかな日光の中で、若木が育っていた。
60㎝、まだ幼子。成人するにはあと五十年かかる。成人したとても、もっと多くの陽光を確保しなければ、そこで朽ち果ててしまう。

森の生存競争は容赦ない。弱者は淘汰され、命を繋ぐために残るものは、孤独とともに長い時を生きることになる。

多恵は木立の奥へ進み、草が生い茂る斜面を滑るように降りていった。
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