ホテル ポラリス 彼女と彼とそのカレシ?
「あの森を思い出すね」
玲丞の言葉に、多恵の胸に静かに波紋が広がった。
多恵が麻布のマンションを購入したのは、隣接する小さな森に一目惚れしたからだった。
私有地なのでベランダから見下ろすことしかできなかったけれど、ある日、彼に誘われて、不法侵入をはたらいてからは、よくふたりで忍び込んでは、鬱蒼とした森を散策した。
秋から冬へ、冬から春へ、風の冷たさとともに姿を変えてゆく木立。枝葉の間から覗く移ろいゆく空の色。口笛で鳥たちを呼ぶ横顔。照れながら繋いだ手の温もり。
ふたり過ごした時間は、美しい思い出として心の奥底に眠っている。
「落ち葉が舞うなか、君はドングリを拾っては、土に埋めていたよね」
多恵が無視していると、玲丞はしつこく続けた。
「あの森、潰して公園にするそうだよ」
思わず多恵は振り向いた。
「災害時の避難場所を確保するためらしい。仕方がないよね」
多恵は反論しかけて、口を噤んだ。
人間はどこまでも得手勝手だ。後からやって来たくせに、我が物顔に破壊する。それが「仕方がない」の一言で片付けられていくことの、やりきれなさ。
「だから、森がなくなってしまう前に、もう一度見に行こう? 君のドングリが芽を出してるかもしれない」
多恵の瞳が揺れた。
すべてを忘れて逃げ出せたら、どれだけ楽だろう。
たったひとりで背負い続けるには、重すぎる荷物なのだ。
ここで投げ出したって、誰が責められよう。
けれど──。
多恵は一度瞼を閉じて、彼の残像を拭い消した。
そうしてきっぱりと目を開けて、凛とした声音で言った。
「遊歩道は、あちらです。ここからはお一人でお戻りください」