シュクルリーより甘い溺愛宣言 ~その身に愛の結晶を宿したパティシエールは財閥御曹司の盲愛から逃れられない~
 オーベルジュの寮に置きっばなしにしていた服やスケッチブックをスーツケースに詰め込んた。
 それらを抱えて、オーベルジュを出る。コックコートを脱いだ私は、もうただの『前埜希幸』だ。
 
 それから、オーベルジュを出てまっすぐに櫻坂へ向かった。
 奥様と話がしたいと幾美家に電話を入れると、すぐに来るよう言われたのだ。

 櫻坂をゆっくりと登る。
 雨だれが傘に当たる音が、まるで私の心臓のように乱れたリズムを刻む。
 大きすぎるスーツケースは、この雨に容赦なく濡れていく。

 やがて櫻坂の終点につき、高級住宅街の入り口に対峙した。異様なほどに大きい、他エリアとこの先を隔てる門の前。
 いつ来ても、心が怯んでしまいそうになる。

 この先に広がる高級住宅街は、低く黒い雲に覆われている。まるで私を歓迎なんてしないと言っているようだ。

 大丈夫。
 私は慧悟さんとは結ばれない。
 それを今から、確認しに行くだけだ。

 お腹をそっと撫で、拳を握りしめた。光の灯る守衛室を覗く。

「前埜希幸です。幾美家の奥様と約束を――」

「ああ、聞いてるよ。どうぞ」

 門が簡単に開き、さっと通れてしまう。
 私はここを入れるような人間じゃないのに。

 ――きっと、ここに立ち入るのは今日で最後だ。

 もう一度、そっとお腹を撫でた。
 ここにある命を、私は守り切れるのだろうか。
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