天妃物語 〜鬼討伐の条件に天帝の子を身籠ることを要求されて〜
「……ちちうえ、わからないことがある」
「なんだ」
「どうして、てんていがここにいるんだ。てならいでべんきょうしたんだ。てんていはてんにいるって。それなのにどうして……」

 紫紺の素朴な疑問でした。
 紫紺は鍛錬を始めたのと同時期に手習(てなら)いも始めています。聡明な子どもなので今ではちょっとした読み書きもできるようになっていました。書物を読むのも好きな子なので、天帝についての神話も知っているのです。
 でもその質問が耳に入ってきた瞬間、私は落ち着かない気持ちになってしまう。
 聞いては駄目だと本能が警鐘(けいしょう)を鳴らしたのです。
 心臓がどくどくと嫌な音を立て始めて、心がざわざわと騒ぎだす。
 聞きたくありません。聞いてはいけません。だって天地創造の神話が正しいのなら、天帝は。

「俺が地上に降りた理由も、お前を強くしたい理由も一つだけ。――――天妃を取り戻すためだ」

 ……ああ。
 ああ聞きたくなかったのに。
 聞いてしまった答えに私の全身が強張っていく。
 その答えは今まで数々あった疑問の点を線で結ぶものだったのです。そして結んで描かれたのは天妃という存在。
 私は震えそうになる指先をきつく握りしめました。
 馬鹿みたいです。今までどうして黒緋も私を愛していると思っていたんでしょうか。ほんとうに馬鹿みたいです。
 一人で浮かれたりして、勘違いして、ほんとうにっ、ほんとうに……馬鹿みたいですっ……。
 私は黒緋を見つめて笑顔を浮かべました。

「黒緋様、鬼神を討伐していただいてありがとうございます」

 ゆっくりと感謝を伝えました。
 声が震えてしまわないように、笑顔が崩れてしまわないように、握りしめた手に痛いほど爪を立てます。ぐいぐいと爪を食い込ませて、痛みで心を塗りつぶすように。

「これで斎宮のみんなも喜ぶでしょう」
「お前の望みが叶えられて嬉しく思う。さあ帰ろう」
「はい……」

 帰ろうと促す黒緋の声は優しくて、手は当たり前のように私に差し出されます。
 その手に手を重ねると握り返されました。
 天帝とはなんて優しいのでしょうね。懐深(ふところふか)寛大(かんだい)で、鷹揚(おうよう)で、穏やかで。
 でももう知ってしまいました。
 その優しさは私だけのものではないのですね。地上にいるすべての人間に向けられるものなのですね。
 そしてそんな天帝の唯一の最愛、それは天妃ただ一人なのですね。




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