彼に抱かれ愛を弾く 〜ベリが丘恋物語〜
「矢吹さん、ローマでの演奏を終えて、ソウルに向かうところだったの。それを日本に変更させてもらったのよ。ソウルでの演奏に必ず間に合わせることを条件にOKをもらったの。飛行機の変更も間に合って、今頃は日本に向かっているわ。明日11時過ぎには国際空港に到着予定だから、迎えの車も手配済み。これで直接お礼を言えるし、なんといっても美音ちゃんの演奏を聴いてもらうことができる」

沙織はOKしてもらったとさらりと言うが、スケジュール変更などそう簡単にはできないはずだ。しかも、飛行機まで変更し、もう日本に向かわせているなど神業ではないか。それをやってのける沙織の突出した能力と交渉力には驚嘆するばかりだ。

「マネージャーさんが教えてくれたの。矢吹さんは、美音ちゃんの演奏をとても楽しみにしているって。病気になって、ピアニストになる夢を諦めて、それでも頑張って前に進んできた美音ちゃんが、ホテルデュスイートべりが丘のロビーラウンジという、矢吹さん家族にとってとても大切な場所でピアノを弾く。その姿をしっかり目に焼きつけたいのだと矢吹さんが言っていたって」

「大切な場所?」

「えぇ、矢吹さんが亡くなったご主人と出会って、結婚を決めた大切な場所なんですって」

「亡くなったって……」

「美音ちゃんが中学2年生の時に病気で亡くなったそうよ」

「そうだったのか……」

彼女も大切な人を失っていたとは……
しかも、追い打ちをかけるように突発性難聴の発症。彼女にとっては暗闇に突き落とされたことと同義だろう。当時の彼女の心情は察するに余り有る。助けた時、頬に残っていた彼女の涙の跡が胸を疼かせた。
しかし彼女はしっかりと前に進んでいたのだ。

もしこの場に彼女がいたのなら、思いっきり抱きしめて、よく頑張ったと言ってやりたい。
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