君と青空を泳ぐ
第一章 飛び込み
「ねえ!お母さんまた勝手に私の部屋入ったでしょ!!」
部屋の物の位置が変わっているのを見て、私は叫ぶ。
「雪葉が自分で片付けないからでしょ!」
お母さんがそう反論して、私を目を見つめる。
「私は私の決めた場所においてるんですうーーー。てか机の上に置いといたシャーペンないんだけど!!どこやったの!?」
「すてた」
シャーペンを捨てられたことはもちろんなのだけれど、それに加えて私は、お母さんのこの適当な物言いに腹が立ってきてしまう。
「はあ!?ふざけんな!まじでうざい。友達とお揃いで買ったやつだったのにどうすんの!!」
「はいはい。そうですか。また買えばいいじゃん」
私はますます感情的になって、お母さんは意地でも冷静さを保つ。この繰り返しだ。
「今お金ないの!しかもあれは友達と一緒に買ったからいいの!!二度と同じのは戻ってこないんだってば!!」
良くないとわかっていても、沸き立つ感情が抑えきれない。
「また新しいの買ってくるからいいでしょ。」
冷静さをアピールをしていたお母さんだったが、よくみると頬が少し引きつっていた。それを見てかなり怒っていることに感づいた私は、自分の部屋へと逃げるように向かう。
「今の話聞いてた!?耳悪いんじゃないの!?」
最後にそう吐き捨てて勢いよく扉を閉める。
「あーーーもうーーーなんだよまた買えばいいじゃんて。ほんといらつく」
皮膚がひりひりとしたところで、無意識に頭をかきむしっていたことに気がつく。
手を離すと、いくつかのふけが雪のように降ってきて、指には長い髪の毛が何本か絡まりついていた。
それを見て、またいらつきが湧き出てくる。
「あー、はやくこんなところ出てってやりたい」
なんだか自分のいる世界が狭苦しく感じて、私は部屋の中でこっそりとぼやく。
私は何とか気持ちを落ち着かせようと窓を開けると、すっと冷たい空気が舞い込んできた。
今は何故かそれに晒されていたくて、そのまま外を眺めてみる。
目の前には沢山の家の光が、街一面に広がっていた。
それは、人々が作り出した地上の星のように思えた。それぞれの幸せとか、生活とか温かさがそのまま光になって、苦しい私の心を照らしている。そう見るとますます美しく感じてしまう。
そんなことを思いながら外を眺めていると次第に怒りが吸い込まれていって、ようやく落ち着きを取り戻した私は、そばにあったスマホの画面を開く。
気分を変えようと動画アプリを開いて、いくつかの動画をスクロールする。すると、最近流行りの歌動画が耳と目いっぱいに広がってきた。
「」
音に合わせて口ずさむ。これは以前翔くんがおすすめしてくれて、それから私もよく聞くようになった曲だ。
特にaメロの落ち込んだ暗い曲調から、だんだん盛り上がって、サビでその全てを覆す力強い音を成すところがお気に入り。
一度聞き終わると少し楽しい気分になって、また画面をスクロールする。
次にかわいい動物が液晶いっぱいに表示された。雪の中で二匹の犬と猫が駆け合っている。
雪で真っ白に染まったアメリカンカールの黒猫が前の白猫にちょっかいをかけると、それに元気な柴犬が反応する。それからじゃれあって追いかけあって……
ペット欲しいなあ……。一人暮らししたら生き物を飼って、一緒にご飯を食べて、それから毎日一緒に寝て……
そんなことを考えていると、いきなり部屋の扉が開いて、私は肩を竦める。
「雪菜!またスマホばっかりみて。勉強は。今日はどんだけやったの」
母は叫びながら私の部屋のドアをあけて、顔を出す。
「今からやるとこなの」
「じゃあ早くやりなよ」
「もうーわかったから。はやく出てって!」
また怒った口調になってしまう。
せっかくのいい気分が台無しだ。ほんとに、うざい。
仕方なく、私は机の上にある教科書を開く。
いきなり飛び込んでくる文字の羅列に吐き気を覚えながらも、何とか目を通す。
そこにはテスト範囲のいくつかの詩が書かれていた。
一番最初に目に付いたのは、印象的な顔写真と共に載せられていた、前から三番目の句。
「いくたびも雪の深さを尋ねけり 正岡子規」
「おい誰だよこのハゲジジイ!!」
いらつきのあまり思わず叫んでしまう。
「意味わからんし。はい、次々。なになに、くれなゐの二尺伸びたる……正岡子規」
「だから誰だよこのハゲジジイ!!」
「あーもう明日テストほんとにやばいって、もっとちゃんと勉強しないと。まずは暗記か…」
(いくたびも……いくたびも二尺伸びたる……)
そうは言ってみたものの、きっとこんな子守唄を読んでしまったせいだろう。
私は知らない間に、そのまま委ねられてしまっていた。
「ねえ、しょうくーんこれまじでわかんない」
昨日勉強しようとして途中で止まっていた俳句の教科書のページを開いて翔くんに向ける。
その横では、窓から暑すぎる夏の日差しがじりじりと私たちを照らす。そのせいで脇から汗が垂れてきて、不快な気持ちになる。
さすがにこの暑さには、朝ふりかけた制汗剤も耐えられなかったらしい。
臭いは大丈夫だろうかと少し心配になりながらも、近づいてくる翔くんの傍に寄り添う。
「これはね、正岡子規が病気で寝込んでいて、そとが見られないから雪の様子を家族に聞いていた所を詠んだ詩なんだって」
翔くんは得意げに私に語る。翔くんは勉強ができるからいつもこうして、テスト前になると私は翔くんを頼る。
「へえええ!流石翔くん!これで国語は満点だー!」
白々しい笑みと大袈裟な声でそう叫ぶ。
「んなわけ!でも、頑張って!雪葉ならいける!」
翔くんはにこにこと優しく笑って、自分の席へとつく。
私は不器用だから、いつも一直線に進み続ける。
だから、いつも気がつけない。私にだけ向けられた、その後ろ姿に。
――ピッピピ。ホトトギスが、鳴く。
「あああーもうーテスト難しいって。全然解けなかった」
私はそう翔くんにぼやきながら、帰路につく。
「そっかそっか。結構難易度高かったもんな。ま、俺は解けたけど」
ドヤ顔で連ねてくるので思わず声を張り上げて。
「はあ!?意味わかんない!」
「うりゃ!」
気合いとともに肩をぶつける。
翔くんも私も笑っている。
まるで分厚い雲から漏れ出る太陽の輝きが、二人だけを照らすよう。
「明日の一ヶ月記念日デート楽しみだね!」
途切れそうな会話に、無理やり言葉を繋ぎ込む。翔くんは口数が多い方では無いので、会話が途切れることがなんだか寂しくて、いつも私ばかり喋りかけてしまう。
「うん。雪葉が頑張ったから、たくさん楽しませるよ」
その言葉と私だけが見れる微笑んだ翔くんの顔に、たまらなく幸せを感じる。
「やったあ!嬉しい」
そう言って、私は勢いに任せて翔くんに飛びつく。
翔くんは恥ずかしいような、照れたような顔をしながらも、私の耳でなければ聴き逃してしまうくらいの声で大好きと言ってくれた。
(やっぱり翔くんは優しい。お母さんとは、大違い)
――ガタンゴトン。
揺れる列車、覗く観覧車。
私の心はどんどんと踊っていく。
次は、葛西臨海公園。
ピッという改札を出る音と共に、心の揺れはさらに大きくなる。
太陽は、相変わらず灼熱の温度でこちらに顔を向けてくる。
「二十分前に着いちゃったよ。翔くんさすがにまだ居ないよねー」
と言いながらあたりを見回すが、やはりそれらしい姿は無い。
そのまま十五分ほど待っていると、途端どうしても落ち着きが無くなってしまって、トイレへと入った。
服と髪と化粧のチェックをしてから出てみるもののまだ翔くんは現れない。
「雪菜ー!」
そう私の名前が呼ばれたのは、それから10分ほど経った後だった。
「ねえー翔くん5分遅刻ー」
優しく笑いながら、翔くんの愚行を咎める。
「ごめんごめん。起きるの遅くなっちゃってさ。あ、雪葉お化粧してきたんだ。似合ってるね。」
急に飛んできた褒め言葉に、私の頬はチークなんていらないという程に赤く染まる。
(やっぱり翔くんのこんなところが大好き。)
噛み締めるように、強く思う。彼を一生愛し続けていくんだと。
愛され続けるんだと、心に刻み込みながら。
「それじゃあ、いこっか!」
「うん!」
鋭く強く返事をする。
記念日デートの始まりだ。
私たちはそのまま水族館へと向かう。
予定では水族館で遊んだ後にご飯を食べて、午後からは遊園地で遊ぶことになっている。
どこも沢山の人で賑わっていたが、水族館の中に入ると特に賑わいが大きく感じられた。
途端、目の前には巨大な水槽と大量の魚が眼前に映し出され、思わず声を上げる。
「なにこれ!すごい!!マグロがいっぱいいる!」
「雪葉はしゃぎすぎだって」
翔くんは少し周りの目を気にしているようにも見えたが、それでも私に付き合ってくれる。
こんなにも幸せなことがほかにあるだろうか。
そう思いながら、私はまた、愛をかみしめる。
「あの子翔くんに似てない?」
一羽のペンギンを指でさして、言ってみる。
「そーかあ?」
少し口元を綻ばせながら、翔くんが首を傾げる。
「そうだよ!凛々しい感じとか餌横取りするとことか!」
「じゃああいつが雪葉だな。よく転ぶし飼育員さんにベッタリ。それから泳ぎが速い」
「んー、それあんまり褒めてない!」
「泳ぎが速いは褒めてるだろ。それに飼育員さんにべったりなのはかわいいって意味だからな」
翔くんは、よく気障なセリフを吐く。こういうところも私は好きだ。
「翔くんそういうとこずるい」
「なんでだよ」
クスッと笑いながら翔くんが言う。
「翔くんにべったりな私にそんなこと言ったらもっと好きになるに決まってるじゃん」
掴む手を翔くんの指から腕へと変えて、甘える声でぼやく。
「あはは。かーわい。もっと好きになっていいんだぞー」
「んふふ」
響かせた声はきっと、翔くんにしか聞こえていない。
「ねえご飯食べよーよ。お腹すいてきちゃった」
「あそこのペンギンランチ雪葉好きそう」
その方向をみると、いくつかのおかずとペンギンの形をしたライスの写真が載せられている。
「え!なにあれかわいい!」
「やっぱり。じゃあお昼はあれにするか!」
「いいの!?でも翔くんが他に食べたいものあったら…」
「俺は雪葉が食べたいものを一緒に食べたい」
「ええ!嬉しい!ありがとう。大好き!」
「かわいいーー」
スプーンを口に運ぶ翔くんとペンギンランチにスマホを向けながら、そうつぶやく。
「雪葉の方がかわいいよ。」
「またそういうこと言うー!嬉しいけど」
「でも私から見たら翔くんの方がかっこいいよ」
何とか応戦して言い返す。
微笑む翔くんを前に、私はペンギンの形をしたご飯をゆっくりと切り崩す。
「きれい…」
ゴンドラ越しに見えるその夜景は、有無を言わせぬ美しさで、ただただ心を締め付ける。
それでもこっそり翔くんの方が綺麗、なんてことを思いながらみつめていると、翔くんが勢いよく口を開くのがわかった。
少し間があって、何かと思って待っていると、
「また次の記念日にも来ような!」
そう告げられる。
その言葉の嬉しさに、早く動く心臓を締め付けて、即答する。
「うん!絶対来る!」
(こういうところが、大好き)
それからは何故だかお互いに落ち着かない気持ちになってしまって、二人を包み込んだのは、夜の静寂さと街の灯りだけだった。
それから殆ど喋ることはなく、ゆっくりゆっくり進んでいたはずのゴンドラは、いつの間にかジェットコースターと変わらないほどの早さで終わりを迎えてしまった。
手を繋ぎながら観覧車を降りて、今度は恋人繋ぎに直して、駅へと向かう。
「そろそろ帰るか」
沈黙を遮った音は、聞きたいようで、聞きたくないような言葉だった。
「そうだね。今日はちょー楽しかった。ありがとう!」
襲いかかる寂しさを必死に抑えながら、私は笑顔を月に光らせる。
「俺も、めちゃくちゃ楽しかった」
暖かくて、冷たい、二人だけを包む風。
「じゃあ、またね」
私がそう告げると、翔くんは少し逡巡する様子を見せて、やっぱりといった様子で言葉を零す。
「雪葉。一緒に帰ろ」
驚いた。嬉しかった。
「行きは別々で来たのに。帰りは一緒なんて。やっぱり翔くんはちょっとずるい」
(でも、そんなところが好き)
「怒んないでよー」
翔くんが微笑みながら、私に語り掛ける。
「ほら、行こうぜ」
そう言って差し伸べられた手は、夏の暑ささえ止めてしまうほどに暖かく、強く握られた。
(好き好き好き。大好き)
日に日にます想いの炎は、もはや消すことなどできないほどに燃え上がる。自分さえも焦がすことを知らずに。
「ぷはぁっ」
「21.6」
水面から顔を上げると同時に告げられる。
「雪葉すごすぎ!練習でべスプラ2だって」
「元々早すぎて私たちじゃ着いてけないのに」
同じ水泳部員の友達が、口々に私を褒めていく。
「全国のタイム切らないと行けないからね」
息切れと倦怠感の中で応えるから、笑えているか心配になりながらプールサイドへと上がる。
「何秒切らないといけないんだっけ?」
「2分18秒19」
これは現在の女子200メートルバタフライの全国大会への基準タイム。
これを今週の県大会で切らなければいけない。
私のベストタイムが19秒01だからかなりギリギリのラインなのだ。
「もし雪葉が全国行ったら全員で応援しにいくからね!!」
「千葉のエース雪葉って横断幕持ってく」
「恥ずかしいからやめて」
三人で息を合わせて笑う。
「いけたらの話だけどね」
「大丈夫だって!絶対雪葉ならいける!応援してるからね!」
そう激励され、私は嬉しさとプレッシャーを感じつつ、また飛び込み台へと駆け上がる。
知らないうちに太陽はオレンジ色に染まっていて、私よりも先に水面を泳いでいた。
「雪葉お疲れ様!」
「ありがとう!翔くんもおつかれ!」
翔くんと私はこうして毎日部活終わりに集合して一緒に帰っている。
部活終わりの翔くんは特にかっこよくて、夕日を浴びる横顔が特に私のお気に入りだ。
「雪葉、手つなご」
学校を出る時のお決まりの言葉。
いつもは見せないけれど、翔くんは案外寂しがり屋さんなのかもしれないと考えてみるものの、早く手を繋ぎたくて、即座に脳内でかぶりを振る。
「やった!」
大きく返事をする。
これが、私の大好きな時間。暖かくて優しくて幸せで。ただただ噛み締める思いで指を絡め合う。
「毎回思うけど翔くんの手って意外とごつごつしてるよね。見た目が細くてすらっとしてるからちょっと意外」
「バスケしてるからかな。」
「それ関係あるの?」
「ないかも」
「何それ!」
光の下で響き渡る声は、さながら鳥のさえずりのようで、変わらず今日も鳴いている。
「てかこの前の翔くんのバスケの試合ちょーかっこよかった!!スリーポイント決めた時とかもう私叫んじゃったもん」
何を返そうか迷って、ふと思い出した最近の恋人の自慢を告げてみる。
「聞こえてたよ!今の遠吠え雪葉かなーなんて思いながら聞いてた」
「犬じゃないわ!」
「雪葉は絶対犬だって。いっつもくっついてくるし」
「えーじゃあ翔くんは絶対ぜーーったい猫!時々塩だし」
不満げにそういうと、翔くんは笑いながらごめんと一言落として、代わりにと言わんばかりに告げる。
「今週末の雪葉の大会見に行くから!雪葉の遠吠えよりでかい声で叫ぶ」
「恥ずかしいからやめて」
二人で揃えた笑い声は、太陽の光と共に西の空に飲み込まれてしまう。
「翔くんが来てくれるなら私絶対頑張れる!いいとこ見せるから!ありがとね」
「雪葉が頑張ってるとこ見たいしな」
「んふふ。嬉しい!大好き!これからもずっと一緒だからね!」
「あたりまえ!!」
幸せに包まれた二人の絡む手は、いつの間にか繋ぎ止めるように、強く強く握られていた。