初恋の終焉〜悪女に仕立てられた残念令嬢は犬猿の仲の腹黒貴公子の執愛に堕ちる

不穏な噂


 無断外泊をしたあの日からエリザベスの生活は一変した。

 外出はほぼ禁止され、対外的な用事で外出する時は、必ずミリア他、数名の侍女がつく。しかも、あの日以来エリザベスはハインツとの接触を一切、断たれている状況だ。手紙や贈り物の類すら来ない。

 あの日、父から問い詰められることはなかったが、ハインツと一線を超えてしまった事に勘づかれた可能性は高い。

(あぁぁ、どうせ結婚するのだから、大目に見てくれたって!! 婚約者のいる令嬢だったら、大なり小なり、そういう事はやっているでしょうよ)

 貞操観念の厳しいグルテンブルク王国でさえ、婚約者との逢瀬は大目に見てくれる節はある。もちろん、結婚前に純潔を失った令嬢だっているはずだ。ただ、婚約破棄をされた場合、女性側が圧倒的に不利になるのは覚悟の上だ。だからこそ、父の怒りもごもっともなのだが。

 でも、後悔はしていない……

 ハインツを誘ったのは自分だ。あの時、あの選択をしていなければエリザベスは一歩を踏み出せなかった。きっと今でも、言い訳を重ねて前へ進めていない。

 強引でも、一歩を進む勇気をくれたのはハインツだ。ただ――

「なんで、会えないのよぉぉぉ!!!!」

「お嬢さま、叫ばないでください。お化粧が崩れます」

「あっ……ごめんなさい」

「ハインツ様に会えず、叫びたい気持ちもわかります。ただ、自業自得です。今は、公爵様のお怒りが収まるのを待つのが得策です」

「そんな事はわかっているわよ。ただ、手紙すら来ないなんて、ひどすぎると思わない?」

「お手紙に関しては、公爵様は関係ありませんね。破棄されている形跡もございませんし」

「うそ!? ミリア、それは本当なの?」

「えぇ、残念ながら」

 そんな事ってある!? 想いを通わせた男女がずっと会えていないのに、手紙の一通も来ないなんて……

 エリザベスの頭の中で、有名な一節がクルクルと回る。釣った魚にエサはやらない。

(まさか、ハインツ様もそのタイプだったの?)

 最近耳に挟んだ噂がエリザベスの脳裏を過ぎり、心が重くなった。

 信じたい、ハインツを信じたい。だけど、裏切られ続けた過去が、臆病な心を真っ黒に染める。疑心暗鬼になった心が、過去の亡霊のささやきに耳をかせとそそのかす。

 耳をかせば真っ暗な深淵へと引きずり込まれ、ウィリアムの幻影にエリザベスは再び囚われてしまう。

 それだけは嫌だ。

「お嬢さま! そんなこの世の終わりみたいな顔しないでください。今日は、大切な勝負の日ではありませんか。王太子妃様主催のお茶会など、王太子派の貴族がわんさか参加されます。ハインツ様の婚約者として、根掘り葉掘り聞かれますよ。そりゃ、嫌味の嵐となりましょう。そんな弱気では、奴らに喰われますよ!」

「わかっているわ。今日のお茶会が勝負だと言うことも。そんな事、わかっている」

 でも、そのお茶会にハインツ様は来ない……

 王太子の側近を務めるハインツの執務は膨大だ。婚約者と云えども、気軽にエスコートをお願い出来るような立場ではない事くらいエリザベスは理解している。ただ、今日くらいは隣に居てくれてもと願うのは贅沢な事なのだろうか。

「お嬢さまのお気持ちもわかります。今日くらいハインツ様にエスコートしてもらいたい気持ちも理解出来ます。ただ、そんな弱気でよろしいのですか? ハインツ様の隣にいる限り、周りからのやっかみは避けることは出来ないでしょう。それはウィリアム様の比ではありません。何しろ、ハインツ様の人気は絶大だそうですから」

「えっ!? ハインツ様って、そんなに人気があったの?」

「……お嬢様、知らなかったのですか」

 鏡越しに、残念なものでも見るかのようにミリアに見つめられ、エリザベスは恥ずかしさで顔が赤くなった。

(嘘でしょ? あのハインツ様に人気があるだなんて信じられないわ)

 確かに、黒曜石のように美しい黒目に、艶やかな黒髪。少し神経質そうな雰囲気はあるが、あの整った顔立ちは、美形の部類に入るだろう。ただ、あの辛辣な物言いに傷つく令嬢は多いだろう。とても、人気があるようには思えない。

 夜会の度にハインツの周りに群がるハイエナ令嬢達は、心臓に毛が生えた強者ばかりだと思っていた。

(てっきり彼女達は、ハインツ様のお家目当ての方達ばかりだと思っていたけど、違ったのかしら?)

 首を傾げるエリザベスに、ミリアがトドメを刺す。

「いいですか、お嬢様。ハインツ様の性格がいくら悪くても、公爵子息と言うだけで群がる令嬢は山のようにいます。しかも、あの馬鹿王子とは違い、今まで浮いた噂すらなかったのです。男色疑惑が上がった事もありましたが、エリザベス様と婚約された事で、女性もOKとの認識が社交界で広がっております。そして、あの美貌です。王太子殿下の側近で、公爵子息で、あの美貌。あんな好物件、独身令嬢なら放っておきませんし、娘を嫁がせる気満々のご婦人方も目の色を変えて狙ってくるでしょう」

「そ、そうなのね」

「そうなのね、じゃありませんよ。お嬢様は、群がるハイエナ令嬢を蹴散らしハインツ様を死守する覚悟がおありですか? 今までは、ウィリアム殿下の素行の悪さもあり、同情の目を向けられるご婦人方もいらっしゃいました。しかし、これからは違います。そんな弱気では、ハイエナ令嬢共にハインツ様を奪われますよ」

「えっ、えぇ。そうね……」

「いいですか。どうせ今までだって一人だったのです。隣にハインツ様がいないくらい何ですか。この際、『ハインツ様を手玉に取って振り回しているのは私よ』くらいの気持ちで挑みなさい!」

 そうね。ミリアの言う通りだわ。

 ここで弱気になっていては、先が思いやられる。

「ミリア! 喰われる前に、喰えの精神ね!!」

「その粋です、お嬢さま!」

 こうして、ミリアの叱咤激励を受け、王太子妃様主催のお茶会へと乗り込んだわけだが――

「――ところで、エリザベス様。ハインツ様とはいかがですの? スバルフ侯爵家の夜会で、ウィリアム王子殿下とあの男爵令嬢に絡まれていたところをハインツ様に助けられたとか」

「私も聞きましたわ。ハインツ様が、エリザベス様を自分のモノ宣言されたとかなんとか」

「私は、助けられたことがキッカケで、恋に発展して、婚約に至ったと聞きましたわ」

 会場入りする前から、皆さまの関心事の中心になるだろう事は予想していた。予想はしていたのだ。

 ただ、あまりにも矢継ぎ早に投げられる質問の数々に、もうすでにエリザベスは逃げ出したくなっていた。

(こんなところで萎縮している訳にはいかないのよ、エリザベス!!)

 これくらい一人で対処出来ないようでは、ハインツの隣になど立てない。

「皆さまが仰るように、ハインツ様と私は婚約致しました。ただ、まだ正式な婚礼の儀の許可が出たわけではありませんの。ですので、普通の婚約者同士と大差変わりませんわ。スバルフ侯爵家の夜会で助けて頂いたのも婚約者としての義務を果たされただけかと思います。ハインツ様がお優しいのは確かですけど」

 シュバイン公爵家筆頭の王太子派主催の茶会と言えども、本音で話せば自分の首を締めかねない。魑魅魍魎渦巻く社交界では、笑顔の仮面をかぶり、相手を蹴落とすための粗探しをしているのが常だ。

 だからこそ、エリザベスは信頼出来る者以外には決して本音を言わないようにしている。

「でも………。エリザベス様、公爵家同士の婚姻は可能ですの?」

 皆さんその事を聞き出したいのよねぇ。本当、私の方が聞きたいくらいよ。

「申し訳ありませんがその事は父とハインツ様にお任せしておりますので、私の口からはなんとも………」

 エリザベスは、口を濁し、ほほほっと、笑ってなんとかその場を誤魔化すことに成功した。

 そんな、微妙な笑いに、会場内が包まれる中、ひとりの夫人が発言をした。

「そういえば風の噂で聞いたのですが、ハインツ様、近頃地方の教会へ通っていらっしゃるとか。ハインツ様は慈善事業にも興味がお有りになるのですか?」

「ハインツ様はシュバイン公爵家の子息ですし、領地にもいくつか教会があったかと思います。とても素敵な教会ですし、公爵家として寄付もされているのではないでしょうか」

「そうですの。私が聞いた噂ですと教会には特定のシスターに会いに行っているようですのよ。エリザベス様お気をつけくださいませ。男性は移ろいやすいものですから」

 扇子で口元を隠し、ご夫人がクスクスと笑う。火のないところに煙は立たないとでも言いたいのだろう。
 
 ここに集まるご令嬢やご夫人は空きあらばエリザベスを蹴落とし、シュバイン公爵家と姻戚関係を結びたいと考えている者達ばかりだ。

「ご忠告ありがとうございますわ。でもご心配にはお呼びませんの。ハインツ様は色々な令嬢に目移りされるような方ではございませんので」

 なんとかその場をやり過ごしたエリザベスだったが、教会の話は心に大きなシコリとなり残ることとなった。

(ハインツ様に限って浮気なんてするはずない………)

 そう信じたいのに、エリザベスの心に巣くった小さな闇が消えることはなかった。
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