初恋の終焉〜悪女に仕立てられた残念令嬢は犬猿の仲の腹黒貴公子の執愛に堕ちる

悪女の矜持


 触れるだけの行為では満たされない。そんな事を思ってしまうのは、心に巣くった不安のせいなのだろうか。

 なぜ、求めてくれないの?

 思いのままに触れたハインツの唇は、一瞬の熱だけ残し離れていった。その様をエリザベスは唖然と見つめることしか出来ない。

「驚きました。まさか、エリザベスから求めてくれるなんて思わなくて」

 そう言って爽やかな笑みを浮かべるハインツは、違和感でしかない。

 この笑みをエリザベスは知っている。夜会で大勢の令嬢に囲まれ浮かべていた笑みと一緒なのだ。

 人形のように綺麗な冷たい笑み。

 なんの感情も伺えないハインツの笑みを見つめ、熱を持ったエリザベスの身体が急速に冷えていく。

 スッと離れたハインツの身体に伸ばしかけたエリザベスの手は、彼の放った言葉に力なく落ちた。

「今夜のエリザベスは大胆ですね。ドレスも、いつもの貴方とは雰囲気が違う。とても素敵ですよ」

 次々と紡がれる賛辞の言葉も耳を素通りしていく。

(こんなのハインツ様じゃない……)

 いつものハインツなら、今夜の格好を見てありきたりな賛辞を贈るような事はしない。

 変装も兼ね普段のドレス姿とは違うのだ。からかい混じりの言葉を散りばめながらも、心に響く言葉をくれる。

 ちょっと意地悪だけど、最後には心が温かくなる言葉をいつだってハインツはエリザベスに紡いでくれた。

 彼への気持ちを自覚する前のエリザベスでは気づき得なかった些細な変化が、胸を締め付ける。

(どうして……)

 脳裏によぎったシスターとの噂が、信憑性を増していく。

(ハインツ様の心に私はいない)

 ずっと騙されていた? そんな想いがエリザベスの頭を支配し微動だに出来なくなった。

「――、あのっ……、ハインツ様……」

「エリザベス、観劇が始まりますね。席に移動しましょう」

 開始を告げるファンファーレの音に意識が削がれる。

 目の前に差し出されたハインツの手に手を重ねることですら躊躇う。美しい笑みを浮かべエリザベスを見つめるハインツが気持ち悪くて仕方がない。

 踵を返し逃げ出したい気持ちをどうにか抑え、エリザベスはハインツの手に手を重ねた。



『――貴様との婚約を破棄する! 罪を認めよ』

 目の前で繰り広げられる観劇はクライマックス目前だ。悪事を重ねた悪役令嬢が、今まさに断罪されようとしている。

 ヒロインたる男爵令嬢の腰を抱き、悪役令嬢に剣を向ける金色の髪のヒーロー。彼の一挙手一投足をボーッと眺めることしか、今のエリザベスには出来なかった。

 頭の中が変換されていく。

 悪役令嬢役のエリザベスに、剣を向けるハインツ。

 そんな想像がエリザベスの頭を支配し消えない。

 ウィリアム殿下とエリザベスの婚約破棄騒動が市中を賑わしているのは知っていた。

 噂に尾ひれ背びれがつき、婚約破棄を題材に観劇が上演されているのも知っていた。

 ただ、自分がこの物語を観る羽目に陥ると、エリザベスは考えもしなかったのだ。

(なぜ、ハインツ様はこんなものを私に観せようと思ったの?)

 その答えをエリザベスは知っている。

(身の程を弁えろとでも言っているのね、きっと……)

 目的のためには手段を選ばず。

 ハインツ・シュバインという男の本質をなぜ忘れていたのか。次期宰相と目されるほどの男が、恋だの愛だのと言い、結婚相手を決める訳がない。

 今となっては、初恋の君が本当にハインツだったのかも怪しい。

(釣った魚に餌はやらないか)

 純潔を失った令嬢の末路など決まったようなものだ。純潔を奪った相手に嫁ぐか、さもなければ秘密裏に教会へと出奔させられるか。

 ハインツがこの婚約を破棄しない限り、エリザベスは彼から逃げられない。

 ベイカー公爵家の体面を保つためにも、こちら側から婚約破棄を言い渡すことは出来ない。父は絶対に許さないだろう。

(自業自得ね……)

 甘い言葉に踊らされ、ハインツの策略にまんまと嵌まったエリザベスは愚かでしかない。

 自分の馬鹿さ加減を呪ったところで過去は戻ってこない。

「ハインツ様、なぜ私にこの観劇をお観せになったのですか?」

「――そうですね。貴方に真実を伝えたかったと言えばお分かりになりますか?」

 彼は私を愛してなどいない。

 前を見つめ放たれたハインツの言葉が矢となり、エリザベスの心臓に突き刺さる。

 わかっていた事なのに、いざ本人の口から真実を告げられるのは、想像以上に辛いものがあった。

(悪役令嬢を愛してくれる人なんていない)

 エリザベスは溢れ出しそうになる涙を堪え俯く。

(泣いてたまるものですか。こんな男の前で泣くなんてプライドが許さない)

 亡き母が幼いエリザベスに言った言葉が脳裏に浮かぶ。

『エリザベス、どんな時も去り際が肝心なの。令嬢としての矜持を忘れてはいけないわ。相手を黙らせる所作を身につけなさい。一つの所作が相手の心に刻まれ、感情を動かす事すらあるのよ。所作は口ほどにものを言う。この言葉を忘れないで』

 幼いエリザベスには母の言った言葉の意味がわからなかった。しかし、今のエリザベスには理解できる。

 舞台上では悪役令嬢が騎士役の男に捕えられ、地面に膝をつき項垂れている。その姿が、エリザベスを奮い立たせる。

(あの悪役令嬢と同じように私も悪女であるなら怖いものなしね)

 最後くらいは前を向き去ってやる。悪女の矜持見せてやろうじゃないの!

 スッと立ち上がったエリザベスはドレスをつまみ、完璧なカーテシーを取り頭を下げる。

「ハインツ様のお気持ちしかと受け取りました」

 下げていた頭をあげ、真っ直ぐにハインツを見つめ笑みを浮かべると、エリザベスは踵を返しゆっくりと歩き出す。

 瞳を丸くし、エリザベスを見つめるハインツの様子に、傷ついた心がわずかに救われるような気がした。
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