公爵令嬢ヘレーネの幸せな結婚
 声にならない悲鳴を上げて、ヘレーネは一歩後ずさる。
 男が黒いフードを外すと、暗闇でも目を引く赤金色の髪がふわりと流れた。

「驚かせてしまい申し訳ありません、へレーネ公女殿下。まさかこんな時間に一人で出かけるおつもりですか?」
侯世子(エルププリンツ)!?」

 彼の名は、マクシミリアン・アントン・フォン・トゥルン・ウント・タクシス。
 バイエルン王国の東部、ドナウ川とレーゲン川が交わるレーゲンスブルクに居を構えるタクシス侯爵家の世継ぎだ。

 最上級貴族家門(シュタンデスヘル)にまで登りつめた名門貴族らしく、立ち振る舞いはしなやかで隙がない。
 整った顔立ちの貴公子だが、やや吊り上がった目と、すっと通った鼻筋は気難しい猫を連想させた。

「……もう、アントンとは呼んでいただけないのですね……」

 どこか寂しそうに呟いた青年は、珍しく目尻を下げて微笑みかける。

 ヘレーネは胸がギュッと苦しくなった。
 お互いに身分のことなど気にせず思いの丈を語り合った記憶がヘレーネの脳裏に蘇る。

 あの頃、余り笑わない彼を微笑ませる度に仄かな達成感を覚えていた。
 些細なことで一日中幸せでいられたあの頃が懐かしかった。

「そんな薄着で、いったいどちらに行かれようとしたのですか?」
「少し散歩を……」
「……ご迷惑でなければ、お供させていただけませんか? お一人でいらっしゃるのは不安でしょう」
「いいえ、結構です。お気遣いなく」

 断りの言葉を口にして、言い方に棘があるとへレーネは忽ち後悔した。
 夜会中、皇帝に眼中にない扱いをされ、周囲から憐憫と嘲笑の的になって疲れ切っていた。

 心がささくれていたとはいえ、無関係のアントンに八つ当たりをするのは間違っている。
 後悔を滲ませたヘレーネは、唇を噛みしめた。

「──手紙を、出したいのですか?」

 胸に抱く手紙に気づいたアントンは真剣なまなざしをヘレーネに向けた。
 見られたものは、仕方ない。ため息混じりに頷いた。
 
「ええ、そうです。ザクセンにいる兄に」

 アントンは一度きつく目を伏せると、おもむろに跪いた。

「無礼を承知で申し上げます。どうかその手紙を私に預けて下さいませんか」
「……でも……」
「この手紙が重要な物であるならば、ザクセンに届くまでの時間を惜しんではなりません。タクシス家ならば、どこよりも早く兄上の元へお届けできます」

 アントンの申し出に対して、ヘレーネは即座に返答できなかった。

 最速で手紙を届けることができるのは、ヨーロッパ広しといえどタクシス家を置いて他にない。
 タクシス家はヨーロッパ大陸で最大の郵便流通網を築き財をなした一族だ。

 神聖ローマ帝国解体の折、タクシス家が独占していた郵便網は莫大な補償金と引き換えに各国家に召し上げられた。
 郵便流通事業から手を引いて久しいが、拠点施設も人員もタクシス家の影響は色濃く残ったままだ。

 アントンは深く(こうべ)を垂れた。
 彼に任せれば間違いはないとヘレーネは確信している。
 だが──。

「──どうして? どうしてそこまでしてくださるの?」
「それは……」

 震える声でヘレーネが絞り出した言葉は疑問だった。
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