公爵令嬢ヘレーネの幸せな結婚
 冷たい一陣の風が二人の間を通り抜ける。
 夜空を引き裂くように西の空に光が迸り、雷鳴が轟く。

(ああ、そういうことか……)

 ヘレーネは彼の意図を悟った。

 アントンが公爵宮殿のあるミュンヘンまで訪れてエリーザベトと秘密裡に会っているのを、へレーネは知っている。
 贈り物を持参して定期的にエリーザベトに会いに来たアントンの後ろ姿をへレーネは何度も目撃していた。

「私がエリーザベトの姉だから、でしょ?」
「違います!  私は、ただ」

 へレーネの言葉にアントンは弾かれたように顔を上げて首を振る。

 タクシス家の侯世子マクシミリアン・アントンは、妹のエリーザベトに懸想している── ヘレーネが知る秘密だ。

 皇帝とエリーザベトの恋をへレーネが妨害すれば、アントンは想い人と結ばれる機会に恵まれるかもしれない。
 生憎、ヘレーネは皇帝と妹の恋を妨害するつもりは全くない。それがヘレーネの未来を閉ざすことだとしても──。

「ただ?」
「……私はただ……貴女のお役に立ちたいだけです」
「私を助けて下さっても、貴方が願った未来は叶わない。後悔なさらないかしら?」
「決して、後悔はいたしません」

 ヘレーネが念を押すと、アントンはきっぱりと言い切った。
 再び俯いた彼の表情は見えない。
 だが、アントンの声音は痛みを堪えるかのように苦しげに掠れていた。

 湿り気の強い風がヘレーネの身体に吹き付け、間近に迫る雨の訪れを告げる。

「───分かりました。この手紙を預けます」

 しばしの沈黙の後、ヘレーネはアントンの提案を受け入れた。
 彼は大切な宝物を扱うように恭しく手紙を受け取ると立ち上がり、胸に手を当て一礼する。

「必ずや御期待に応えてみせます。──貴女の輝かしい未来に幸多からんことを」 

 アントンは踵を返すと、夜の闇に溶けるように去っていった。

 雨がポタポタと降り始め、石畳に雨染みが広がっていく。

(輝かしい……未来?)

 前途有望な候世子が落魄(おちぶ)れた公女に何という皮肉を投げつけるのだろうか。

 小走りで宿に引き返しながら、アントンが植え付けた密かな憧れをヘレーネは苦々しく思い出していた。
< 14 / 42 >

この作品をシェア

pagetop