公爵令嬢ヘレーネの幸せな結婚
 商人から身を興したトゥルン・ウント・タクシス侯爵家。
 侯爵家の当主であるタクシス侯爵は、異国の美しい男爵令嬢と恋に落ち、国王を始めとする周囲の猛反対を押し切って結婚した。

 系譜から親しみを覚えたへレーネは、その逸話を記憶に刻み込んでいたのだ。

「……羨ましい」
「え?」

 へレーネのぽつりと漏らした呟きに、アントンは猫のように瞳を瞬かせると、すっと目を眇め冷たい視線を送る。

「どこに羨む要素が? 周囲に祝福されない結婚など、卑しいと蔑まされるだけです」
「いいえ、心から憧れるわ」

 忌々しそうに怒気を孕んだ凍った表情で問うアントンに負けぬよう、へレーネはキッパリと言い切った。

「自己紹介がまだでしたね。我が名はへレーネ……ヘレーネ・イン・バイエルン。
 初代公爵は、男爵令嬢と愛を貫き周囲から祝福されない結婚をされました」

 男爵令嬢という言葉にアントンはピクリと肩を震わせた。
 やはり、アントンはタクシス侯爵所縁のものだと、へレーネは確信を深める。

 選帝侯の継承権をもつ公爵と男爵令嬢の貴賤結婚は、大きな反発を招いた。
 長年の交渉と一族間の係争の末、(ようや)くヴィッテルスバッハ家の正嫡の成員として認められたのは孫の代。
 イン・バイエルンの尊称も闘争の歴史から得たものだ。

「我が公爵家は貴賤結婚と蔑む者たちと闘い、権利を獲得してきました」
「闘い、権利を獲得する……」

 アントンはこれ以上ないほどに目を見開き、へレーネの言葉を反芻した。

 へレーネにとって憧れの侯爵家の恋物語を、息子であるアントンが好意的に捉えてなかったことが悲しく思う。
 同時に、公爵家の歴史が示すように、身分差のある結婚は本人も子どもも苦難が伴うのだと、改めて認識した。
 
「蔑む者たちに負けなかった歴史を私はとても誇らしく思うの」

 砕けた口調で堅い話を締めてへレーネは微笑んだ。
 つられたようにアントンも、氷のような表情の強張りを溶かした。

「……いつか母の肖像画をご覧にレーゲンスブルクの邸宅までお越しいただけませんか?」
「是非! 見せて頂きたいわ」

 アントンの誘いに、己の心臓が大きく鼓動するのを感じる。
 侯爵が惚れ込んだ異国の美人をこの目で見てみたい。

 是と答えてみたものの、ただの社交辞令に終わる可能性が高い。
 未婚の令嬢が異性の邸宅へどんな理由を()って訪れることができるのか。

 へレーネの返答にアントンが口許を綻ばせたように見えたのは、残念な気持ちからくる目の錯覚なのかもしれない。
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