公爵令嬢ヘレーネの幸せな結婚
 深夜にも関わらず、公爵宮殿から疾走する馬たち。
 何らかの重大な知らせをバイエルン王国をはじめとする親戚筋に伝える必要が生じたのだ。

「ネネ、やっぱり起きて! 産まれたみたいだ! 僕たちの新しい家族に会いにいこう!!」

 早馬は、バイエルン公爵家に赤子が誕生したことを告げるものであろう。

 珍しく興奮している兄が差し出す手に、ヘレーネは迷いながらも小さな手を伸ばす。

 弟か妹か早く知りたい。
 生まれたばかりの赤ちゃんに会いたい。
 そして、母の大きなお腹を撫でていたように赤ん坊の小さな頭を撫でてやりたい。

 けれども──。

「かぁしゃま、おこらない?」

 こんな夜中に子供が起きだし会いにいくことをルドヴィカは快く思わないだろう。

 ヘレーネにとって最大の懸案事項は母親の機嫌だ。

 普段は愛情深く優しい母であるルドヴィカだが、ひとたび怒り出すと激しい雷雨のような怒りを炸裂させる。

 妻のヒステリーを恐れ、父のマクシミリアン・ヨーゼフは公爵宮殿にあまり帰ってこない。

 バイエルン公爵家のすべては女主人であるルドヴィカの胸ひとつで決まる。

 公爵である父でさえ、バイエルンの王女として(せい)()けた母に敵わない。

 この公爵宮殿はルドヴィカの異母兄であるバイエルン国王ルートビッヒ一世が結婚祝いに与えたものだ。
 父の居場所は、宮殿(ここ)にはなかった。

 父のように逃げ場のない幼い兄妹は、ひとたび母の心が荒れると部屋の片隅で息を潜め冬を耐える小鳥のように縮こまる。
 兄に妹の心配は重く響いた。

「そうだね……怒られるかもしれない。だけど赤ん坊は小さくて儚いんだ。祝福の言葉をかけて安心させてあげたい。ネネ、僕と一緒に怒られてくれる?」

 大好きな兄の頼みを断れるヘレーネではない。こくりと大きく首肯すると、ルートヴィヒと手を繋ぎ、母の寝室へ駆け出した。

「大丈夫、今夜は聖夜(ハイリッヒアーベント)──きっと、神様が僕たちを守ってくださるよ」

 ヘレーネがあまりにも強張った顔をしていたせいだろう。ルートヴィヒが、繋いだ手のひらをぎゅっと励ますように力を込めた。
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