公爵令嬢ヘレーネの幸せな結婚

◇番狂わせのはじまり in München◇

 バイエルン王国、王都ミュンヘンの空を覆う鈍色(にびいろ)雲は分厚い。

 到着したアントンを迎えたのは、ニヤニヤと意地悪く笑うエリーザベトだった。

「あら、また来たのね」

 “諸国民の春”以降、度々ミュンヘンに訪れていたアントンは、街をぶらつくエリーザベトに見つかり、姉に告げ口すると脅されていた。

 口止め料としてヨーロッパ中の珍しいお菓子をエリーザベトに強請(ゆす)られている。

 すでにエリーザベトは大きな瞳を爛々と輝かせ片手を伸ばし、賄賂を待ち構えていた。

 お淑やかで思慮深い姉のヘレーネと同じ姉妹とは思えない。

 エリーザベトの奔放ぶりは高貴な公女には見えず、市井の町娘と何ら変わらない。

 いつもなら苛立ちが湧く見慣れたエリーザベトの姿を、アントンは電撃に打たれたように凝視した。

「なによ!? 人を爪先から頭のてっぺんまでジロジロ舐め回すように見て気持ち悪い!」

バイエルン娘(バイリッシュ)田舎娘(ボイリッシュ)……」

「ああん? 誰が田舎娘ですって?」

 失礼なことをボソリと呟くアントンに、エリーザベトは拳を握り臨戦態勢に入った。

「エリーザベト公女、こちらをお納めください」

 アントンは立腹するエリーザベトの手に、素早く賄賂を握らせた。

「ふ~ん、何これ!? チョコレート? んっ!……ジャリジャリして美味しい!」

「古代チョコレートと呼ばれる物です。シチリア島モディカから運んだ貴重な品ですよ」

 早速、噛り付いたエリーザベトが歓喜の声を上げた。

 カカオと砂糖のみのシンプルなアステカ時代からの製法で作られる古代チョコレートは、低温で処理するため砂糖の粒が残りシャリシャリとした独特の食感がある。

 レーゲンスブルクで待つ、可愛い弟妹たちの好物だ。

 情報収集のためヨーロッパ各地を回るようになったアントンは、各地の銘菓をタクシス家に持ち帰っていた。

 異母弟妹にも土産を渡せば、ギクシャクした雰囲気は緩み、雪解けしたように交流が芽吹いていた。

 だが今は、脳裡に閃いた思いつきを試すためにも、弟妹たちには我慢してもらおう。

 バイエルン公爵家の次女にして、田舎娘の趣のあるエリーザベト──フランツ・ヨーゼフ好みで身分も高い公女の存在はアントンの強力な切り札になるやもしれない。

「お気に召しましたか?」

 エリーザベトは古代チョコレートをザクザク噛むのに夢中になっていて返事ができない。

 代わりにコクコクと頷いた。

「そうですか、それは良かった。また、珍しいお菓子を持って参りますので、くれぐれもご家族には気づかれないように、お一人でお召し上がりくださいね」

「ん!」

 古代チョコレートを口一杯に頬張るエリーザベトは、言葉にならない声で返事をした。

 青年皇帝にはもう一つ大事な『女の好み』が存在する──フランツ・ヨーゼフは、ふっくらした少女を好む。

 嗜好を把握しているアントンはエリーザベトをもっと太らせ、フランツ・ヨーゼフの好みに近づけることに決めた。

「んーっ、やばいわ! 食べだしたら止まらない、癖になるウマさ!」

 ペロリと平らげたエリーザベトは、また出迎えた時のニヤニヤした意地悪そうな瞳でアントンを見上げた。

 重大な秘密を抱え、それを誰かに漏らしたくてうずうずしているようだ。

「……さぁーて、さぁーて、どうしよっかなぁ?」

「なんでしょうか?」

「ん──? まぁ、美味しいお菓子を持ってきてくれたしぃ、特別に教えてあげてもいいかなぁ……」

「何をでしょうか?」

「んーとね、ネネ姉さまは、今、どこにいるのでしょーか?」

 教えてくれるんじゃないのかよ! とアントンは苛ついたが、ヘレーネに関することなので辛うじて堪えた。

 気まぐれなエリーザベトの言葉と行動が一致しないのはままあることだ。

「今日は、ヘレーネ公女はなかなかいらっしゃいませんね」

「残念ねぇ、アントン。わざわざ、レーゲンスブルクから見にいらしたのに」

 そろそろ街をぶらつくエリーザベトをヘレーネが呼び戻しに来てもいいころだ。

 訝しがるアントンに近づいて、エリーザベトは誇らしげに告げる。

「なぁ~んと、ヘレーネ姉さまは皇帝陛下とのお見合いのために、ウィーンに行ったのよ!」
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