つれない男女のウラの顔

「わ、かりました…」


同じ匂いの人物は勿論あの成瀬さんで、平静を装いながら差し出された書類を受け取る。
どうやら彼は仕事の用で声を掛けてきたらしい。井上主任が会議中のため、私に書類を預けただけみたい。

そうだよね。そうでなきゃ、仕事中に成瀬さんが私に話しかけてくるはずがないのだから。


特別な意味なんてないことは分かっているけど、成瀬さんを見るとどうしても“お泊まり”のことを思い出してしまう。お風呂上がりの成瀬さんとか、寝起きの成瀬さんとか、赤面した成瀬さんとか色んな成瀬さんを思い出して心臓が激しく波打つ。目が合わせられなくて、つい俯いてしまう。


ていうか成瀬さん、何でまだそこに突っ立ってるの。用が済んだなら、早く戻らなきゃ不自然なんだけど…


「書類、よく見て」

「え?」


ボソッと落ちてきた声に、ハッと顔を上げる。再び目が合うと、成瀬さんは口パクで何かを訴えてきた。


(ふ、せ、ん?)


口の動きで文字を読み取り、言われた通り今度は書類に視線を移す。そこには確かに付箋が貼られていた。
成瀬さんの字なのか、小さなスペースに綺麗な文字が並んでいる。


“鍵は無事に取り返した。今日は定時で上がる予定だから、アパートの最寄り駅で待ってて”


「…うそ」


思わず声が出て、慌ててマスクの上から口を塞いだ。

鍵を取り返したってどういうこと?いつの間に?でもどうやって?


「詳しくはその時(・・・)に」


再び私達にしか聞こえないくらいの小さな声が落ちてきた。まずはお礼をと言いたいところだけど、私が口を開くまえに「またあとで」と続けた彼は、アッサリと踵を返し、私に背を向けた。


「……」


ほんの一瞬の出来事だったのに、ものすごく濃厚な時間を過ごした気分。

まだ頭の中はハテナでいっぱいだけど、今日のミッションがクリア出来てしまったことに、安堵で肩の力が抜けていく。



再び付箋に視線を落として、成瀬さんの書いた字を何度も読み返す。何となく捨てるのは勿体なくて、書類から付箋を剥がした私は、ポケットに入れていたハンカチで丁寧に包んだ。

帰宅したら、大事に保管しておこう。

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