私と彼の溺愛練習帳
 失敗だ。
 閃理は足を速めた。
 大好きな彼女を泣かせるなんて、そんなこと、自分がしてはいけない。

 いつだっただろう。彼女が帰って来たとき、おかえり、と迎えたら彼女は泣いていた。
 そのときは泣くほどのことかと思った。
 だが、話の通じないジュスティンヌと話し合い、疲れ果てて帰ったとき理由がわかった。

 おかえり!
 彼女の声は愛にあふれていた。

 それで、母を思い出した。
 学校から、友達との遊びから帰るたび、おかえり、と微笑んでくれた母。
 ここにいていいのだと、帰る場所なのだと安心をくれる言葉だ。
 それもまた、愛を伝える言葉だ。
 彼女もまた、自分を愛し、帰る場所となってくれた。

 彼女も自分も、帰らない人を待つ苦痛は、嫌というほど味わっていた。
 高校のときに母が旅立った。父は撮影の仕事のため、閃理を置いて帰って来ない。

 いつも家には一人だった。

 誰もいない空間、ただいまと呼びかけても誰も応えない家。空気は白々しく、世界に一人でいるような孤独感。なんとも言えず空虚だった。自分すらあやふやになっていく感覚は、つらいと言うより恐怖だった。

 離れて暮らす祖父母にも友達にも教師にも家政婦にも言えなかった。あえて明るくふるまい、気を遣わせないようにした。だからこそ疲れ果て、孤独は増した。

 高校生の自分ですら抱えきれないほどの悲しみと孤独にさいなまされた。
 それが10歳の少女であるなら、どれほどの絶望と化しただろう。雪音はそれに耐えて生きて来た。
 なのに。
 一人になる苦痛をまた彼女に与えてしまった。彼女を愛し、守りたいと思っていたのに。

 彼女を信じなかったのは、むしろ自分だ。
 彼女が望んだのに。
 なのに拒否してしまった。
 優しいつもりで。
 彼女に優しくしたかったから。

 セキュリティの解除ももどかしくマンションに入り、エレベーターではいらいらと足を動かす。
 階に着き、扉が開くと同時に飛び出した。
 玄関を急いで開ける。
「ただいま!」
 大きな声で呼びかける。
 が、返事はなかった。
< 136 / 192 >

この作品をシェア

pagetop