私と彼の溺愛練習帳
 ときおりなにもない空間を見つめるのも気持ち悪かったし、なにかいる、と騒ぐのも腹が立った。成人しても出て行かない図太さにも嫌気が差した。

 ようやく出て行ったと思ったら、今度は家の金が足りなくなった。
 まったく、と久美子は憂鬱に目を閉じた。

 暗闇は嫌いだった。
 あの女が真夜中にひょいと現れる夢を見てからだ。
 あの女は死んでいるに違いないのだ。
 だからこの家は正当に相続した、自分の財産だ。
 なのに、あの女は恨んでいる。
 そうに違いないと思った。
 なぜなら、自分なら恨むからだ。

 大丈夫。御札を貼ってあるんだから。
 久美子はまた寝返りをうち、耳に異音をひろった。
 ぶーん、といううなるような音。虫の羽音に似ている。が、虫にしては大きすぎる音だ。

 ふと窓を見ると、光るものが尾をひいて通り過ぎた。
 まさか。
 どきどきして布団をかぶる。

「……ちゃん。くみこちゃん」
 どこからか、自分を呼ぶ声がする。
 久美子はもう五十三歳だ。この歳になると「ちゃん」づけで自分を呼ぶ人は限られる。
 いや、それよりも。今いるのは家の寝室だ。夫は夜勤で娘は自室だ。自分を呼ぶのは誰なのか。姉の声に似ているのは気のせいなのか。

「くみこちゃん、どうして?」
 かすれた声で自分に問いかけて来る。
 どうして、とは。
 きっと気のせいだ。
 深く布団をかぶり、久美子は震えた。
 羽音はしばらくして消えた。
 が、そのまま眠れず、気が付けば夜は明けていた。
< 170 / 192 >

この作品をシェア

pagetop