30歳の誕生日にいつも通っているお弁当屋さんの店員さんとワンナイトしてしまったので2万円置いて逃げてきた

1. いつものお昼

お昼時、12時。
西野 綾羽(にしの あやは)はオフィスビルの地下1階までランチボックスを買うために降りていた。ただのお弁当屋さんだが、一等地にあるお弁当はオーガニックの野菜にこだわった品で、なんと1つ1400円。とても毎日食べられるものではない。このオフィスビルに勤務していれば割引が10%ある。それでも高い。
高くても、週に2回、財布事情が許せば3回、綾羽は食事とは別の目的でこの店舗に通っていた。

「シェフのお任せ野菜カレー1つ、お願いします!」

綾羽はメニューの前で少しだけ悩んだ後、カレーのPOPを指差した。2つの日替わり弁当の他に、先月から始まった個数限定のカレーは綾羽のお気に入りだ。休憩が12時に取れればカレーにするし、13時を過ぎると大抵売り切れているので、ランチボックスを選ぶ、というのが最近の習慣になっている。

「かしこまりました」

カウンターの中から、店員の男性が微笑む。この彼こそ、綾羽がここに通う目的だ。目的と言ってもそれほど下心があるわけではなくて、ただ、この店員のふわっとした笑顔を見にくるだけ。注文以外に話しかけもしないし、名前も聞かないし、連絡先を伝えようなんて全く思っていない。

彼は、清潔感のある黒髪に、綾羽の好みのキリッとした顔立ち。だけど、マスクをしていても分かるくらいにいつも目元がしっかり笑みを描いて挨拶してくれる。そして何より声が良い。

毎日職場と家の往復しかしない綾羽にとって、自分好みのイケメンの笑顔を見られる唯一の機会はちょっとした癒しの時間だ。
ついでに、料理が嫌いで夕飯はコンビニ食や、面倒だと抜いてしまう綾羽にとって、健康的な食事をできる機会になる。お金がかかる以外デメリットもない。

綾羽は特に趣味もなくて、休日は寝ているかスマートフォンで無料のweb小説をだらだら読んでいるだけ。あとはネイルくらいしか娯楽的な出費もないので、仕事で頑張ったお金を使う先として、綾羽はこの店のランチボックスを選んでいる。

「卵はどうしますか?」
「え?」

綾羽は支払い用のQRコードを出そうとしていた手を止めた。目が合うと、店員の男性が気まずそうな顔をした。

「すみません、いつも卵も一緒に頼まれてるな、と思って」
「覚えててくれたんですか?はい、ゆで卵もトッピングでお願いします!」

綾羽は驚いたが、笑顔で答えた。
もうこの店に通い始めて半年は経っている。週に2回通えば50回は顔を合わせていることになる。実際はそれ以上の頻度なので、顔を覚えてもらってもおかしくはないが、嬉しい。

(今日は午後の仕事、頑張れそう!)

綾羽は笑顔で会計を済ませて、店舗を後にした。



一度会話してみると、なんとなくその後もテンプレート通りの会計以外に一言二言話すことが増える。

「今日はビーガンのコロッケです」
「今日は紅くるりのサラダが美味しいですよ」

というランチボックスの内容について説明をもらって、綾羽もその一つ前のものに感想を伝える。

「このプチトマト本当に甘くて美味しかったです」
「中華以外でベビーコーンはじめて食べました」

正直なところ、食事そのものにあまり興味のない綾羽だが、こうして会話をするようになってから今までよりも口に入れるもの一つ一つに意識を配るようになった。丁寧に食べている、という感覚が、そのまま丁寧に生きているような感覚に繋がって、なんとなく毎日充実しているような気分になってくる。

イケメンの笑顔以外にも、もう一つ食事という癒しの時間が増えた。綾羽はそれにお礼を言いたいと思ったけれど、なんとなく照れ臭くて言えないまま、ちょっとした会話を続ける日々がまたしばらく続いた。
< 1 / 7 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop