30歳の誕生日にいつも通っているお弁当屋さんの店員さんとワンナイトしてしまったので2万円置いて逃げてきた

2. 名前

「売り切れ、ですか……」

特に起伏のない日々の中で、ちょっとしたミスで落ち込むことがあった日。綾羽が癒しを求めに行った店舗のショーウィンドウは空だった。
いつもの店員は片付けの途中で、綾羽と目が合うと申し訳なさそうな顔をした。
もう14時を過ぎていて、昼食時は遅い時間だ。

「申し訳ありません」
「いえ、来るのが遅いのが悪いので。美味しいですもん。大人気ですね!」

申し訳なさそうな店員に対して、綾羽はにこっと笑って返した。店員からの「ありがとうございます」の言葉と笑顔をもらえないのは残念だが仕方ない。片付けの邪魔をしても悪いので、綾羽は会釈だけして店を後にした。

(どうしようかな。ここのって決めてたから、何も考えてないや)

地下一階には他にも店があるが、14時を過ぎるとランチは売り切れクローズとなっているところも多い。ラストオーダーが14時30分の中華はなんとなく気分ではない。

(コンビニでおにぎり買って戻ろ)

どうせ今日はミスしたせいで仕事が立て込んでいる。休憩をしっかり1時間取らずにおにぎりを片手にメールチェックでもしようと決めて、綾羽は一番奥にあるコンビニに向かった。

「西野さん!」
「?」
「待って」

突然後ろから声をかけられ、腕を掴まれた。ここがオフィスビルということでギリギリ悲鳴をあげるのは抑え、目を見開いて振り向くとあの店員がいた。制服である黒いTシャツのまま、軽く息を切らしていた。

「あの、どうして私の名前……?」

いくらイケメンでも、名乗ってもいない名前を知られているのは怖い。綾羽がどういう顔をしていいか分からずにじっと見つめると、店員は慌てた様子で綾羽の社員証を指差した。

「あの、それ、いつもお会計の時に社員証見せていただいてるので!すみません、勝手に名前覚えて、怖いですよね」
「ああ!」

納得したので、綾羽はすぐ警戒心を解いた。

「あ!俺は、いや、僕は長谷と言います」

長谷、と名乗った店員は、胸につけている名札を指差した。そこには「ハセ」という文字はなくて、ローマ字で「Yuuichi」と書いてある。

「ユーイチ?って書いてありますけど」
「はっ……すみません、長谷優一と申します」
「ハセさん。ええと、私、何か忘れ物でもしました?」
「え?いえ、えっと……」

優一は少し困ったような顔をした。

「せっかく楽しみにしてくださったのに、お昼ご飯を用意できなかったのが申し訳なくて、追いかけてきちゃいました。よかったら賄いを一緒に食べません?僕、14時で上がりなんです」

優一が人懐っこく笑った。普段の綾羽なら、いくら好みの顔の男性から誘われても、こんな急な誘いには応えない。

ただ今日は仕事でミスをして、一人になるのが少し心細い気持ちがあった。それに優一の働いている店舗はガラス張りで、イートインスペースはテーブル1つのみ。通行人からいつでも見える位置なので、警戒する必要もない。

「本当に良いんですか?」

綾羽が尋ねると、優一は嬉しそうに笑った。

「はい、もちろんです!ぜひ」



一緒に食事をして分かったのは、優一が”ただの良い人”ということだ。

綾羽ももう30になろうとしている女で、過去に彼氏は5人いた。直近で別れた男はなかなかのハイスペックで、コンサルティングファームに勤める高収入の男だった。

それほど話したことのない男性からアプローチを受けることも時々ある。特に20代前半新卒で勤め始めた頃は取引先の人から気軽に声をかけられていた。今思うとあれは舐められていただけで本気でアプローチをされていたわけではないと分かるが、今回もそうなのかなと思っていた。

ちょっとした下心があっても不愉快でない程度には、優一の顔は好き。ただアラサーにもなって飲食店で週に数日のアルバイトをしている、年齢もよく分からない男と親密になろうとは思っていない。一応結婚願望もあるので、非正規社員はイケメンでも論外。

勘違いをさせないように、本当にランチだけ一緒にして、できれば正規の金額を支払って、今まで通りの関係に戻ろう。綾羽がそんなことを考えたのがすごく失礼だったと後悔するくらいには、優一はただ親切だった。

賄いメニューはもう一人キッチンで勤務しているという無愛想な店員が用意してくれた。支払いは受け付けてもらえず、これからも通って欲しいという言葉だけ。会話の内容も綾羽の仕事やプライベートに深く関わることは聞かれず、ただいつも通ってくれて嬉しいということと、この店舗のコンセプトの話や、最近食べたおいしかったものについて話しただけだ。

二人きりですらなく、綾羽のことを全く聞かれないことには拍子抜けした。
綾羽も優一自身のことには触れず、ひたすら食事の話をした。異性っぽさを感じさせない優一の態度に安心して、スルッと素直に言葉が出てくるようになる。

「私、元々は全然食事に興味なくてコンビニに通って朝も昼もツナマヨおにぎり食べ続けるみたいな生活だったんですよ。選ぶの面倒だし、とりあえず口に入れておこう、みたいな」
「そうなんですか。ツナマヨ美味しいですよね。ねぇ、タンパク質も取れて良いですよね、山崎さん」
「ああ。特に朝に良い」

キッチンのスタッフは山崎という名前で、会話中一切表情が変わらないが相槌は打ってくれる。
普段はこの話をすると、女子力低い、意外、などの言葉と笑いが返ってくるので、綾羽はそこでも拍子抜けした。

綾羽はふんわりした癖っ毛の髪をしていて、顔つきも幼い。雰囲気で可愛いと言われるタイプ。
柔らかいスカートに、水色、薄い紫やグリーン、グレー、寒色系のブラウンなどの色が好きで、綾羽をよく知らない人からは、”ぶりっ子”に近い陰口を叩かれることもあるし、女性らしい中身を期待されることが多い。綾羽という名前の響きも可愛くて、身長が高くないのも悪く作用している。

そんな中で、綾羽が女性社員には「私は敵じゃないです」、男性社員には「対象外にしてください」と周りに示すために身につけた世渡り術が、できるだけ女子力が低い行動を見せるということだった。

(ハセさんの前では、そういうの考えるのも失礼だったかな)

「最近は、ツナマヨを食べたとしても、美味しいな、って思いながら食べてますよ。ハセさんがいつも色んな野菜のこととか、美味しい食べ方を教えてくれるから、食事の時間を丁寧にできるようになった感じがして……食べるのって楽しいですよね。ありがとうございます」

綾羽が笑うと、優一もにこっと愛想よく笑う。
食事が終わっても連絡先も聞かれず、優一からは「またのお越しをお待ちしています」という店員としての言葉と、いつも通りの明るい笑顔をもらった。

その距離が心地よくて、綾羽も「これからも通います」と笑顔を返した。
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