君との恋のエトセトラ
第十六章 悩み
その日も、凛はデスクでセレーネシリーズのデザインを考えていた。

クリエイティブチームが修正をかけてくれる度に印刷し、じっくりと見比べる。

色味や配置のバランス、ほんの少しの違いでも妥協せずに、より良いものにしたいと感覚を研ぎ澄ませていた。

すると「立花さん、ちょっといい?」と課長に声をかけられた。

「はい、なんでしょうか?」
「うん。ちょっと場所を変えようか」

え…、と凛は戸惑いを隠せない。

(こんなに改まって話をされるなんて初めて。私、何か怒られるようなことしちゃったのかしら)

神妙な面持ちで、空いていた小さな会議室に課長と向かい合って座る。

「えーっと、あ、そんなに緊張しないでね」
「は、は、はい」
「いやいや、固くならないでいいから。君にはいつも感謝してるよ。派遣社員なのに、とても良くやってくれている。契約では、オフィスでの電話応対や簡単な事務作業、コピーを取ったり資料を印刷したりをお願いしたいってことで派遣会社と話をしていた。けど、今の君の働きぶりはそれ以上だ。契約内容から遥かに踏み込んだうちの仕事を手伝ってくれている」

凛はハッとして慌てて頭を下げた。

「申し訳ありません。出過ぎた真似をして…。契約違反ですよね?あの、私、罰せられるのでしょうか?」
「あはは!まさかそんな。罰せられるとしたらこっちの方だよ。契約内容以上のことをしてもらって、給料はそのままなんだから。それでね、君に提案なんだけど。どうかな?うちの正社員にならない?」

は?と、思わぬ言葉に凛は目をしばたかせる。

「正社員、ですか?この会社の?いえ、私、こちらの会社への就職活動はしておりませんし、面接や試験も受けていなくて…」
「うん。だから中途採用になるね。来月から切り替えてもいいよ。給料も格段に良くなると思うし」
「お給料が、格段に?」
「そう。知ってる?うちって業界トップの会社で社員の給料もいい。その中でも営業が一番高いんだ。うちの課の平均年収は1千5百万円。河合くらいの成績優秀者は2千万は下らない」

ひっ!と凛は顔をひきつらせる。

「か、か、河合さん。億万長者だったんですね?」
「ははは!さあ、どうだろう?女遊びに散財してるかもよ?」
「そ、そんな方ではありません!」
「分からんよ?まあとにかく、君もうちの社員になれば今の派遣会社の時給よりは良くなるよ。営業アシスタントでまだ年齢も若いから、さすがに1千万は無理だけどね。6百万くらいかな?」
「ろろろ6百万?!」

思わず息を止めてしまい、慌ててスーハー深呼吸をする。

「君よりも仕事が出来ない社員でも、それ以上もらってる。君ならそれくらいもらって当然だ」
「いえいえいえ、あの、私は500円玉貯金が趣味のしがない田舎者です。そんな大金を手にするのは、何か詐欺に遭った時だけだと思っています」
「ええ?!それじゃあ、俺は詐欺師ってこと?それは困るな。訴えないでよ?」
「そそそんな、滅相もない」
「それに俺にこの話を持ちかけたのは、実は木原なんだ」
「えっ…」

思わぬ名前が課長の口から飛び出し、凛は顔を上げる。

「木原さんが、ですか?」
「そう。あいつ、君が河合と組んでMoonlirhtの仕事をしているのを見て、割に合わないんじゃないかって。もっと評価されるべきだってね。確かにそうだと俺も思った。ごめんね、派遣社員を雇うのは初めてだったから、そこまで気づけなくて」
「いえ、そんな。お気遣いありがとうございます」
「じゃあどうする?俺から派遣会社に連絡入れようか?うちの手続きも同時に進めておくよ」
「いえ!あの、少し考えさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「いいけど、何か心配なことでもあるの?あ、俺が詐欺師とか?」
「ち、違います!まさかそんな。ですが、私には身に余るお話で、とても現実的とは思えず、すぐにはお返事出来なくて。申し訳ありません」
「構わないよ。じゃあ少し考えてみて。気持ちが固まったらいつでも声かけてね」
「はい、ありがとうございます」

凛は深々と頭を下げた。
< 81 / 168 >

この作品をシェア

pagetop