陰キャの橘くん
「おーっ。青山くん!今日はありがとうね。」
離れた席から、吉田館長が大声を出す。
「いえいえ、こちらこそ。いつも皆さんにはお世話になって。」
青山くん、と呼ばれた黒髪センター分けのその男は、ニコッと笑った。

青山翔太(あおやましょうた)。30歳。このバーの店長である。長身で、なかなかのイケメン。青山目当てにこの店に足を運ぶ女性客も多い。
…そして青山は、半年前まで付き合っていたももの元彼だ。

「朱里ちゃんも相良くんも久しぶりだね。最近来てくれないから。」
「あー…すみません。なんか仕事忙しくて。」
藤堂の言葉に、相良がうんうんと必死に頷いた。
「また来てよ。待ってる。」
青山はそう言うとテーブルから手を離し、そのままももの鎖骨から肩にかけてのラインを、すっと指でなぞった。
ももの体がビクッと震える。

傍から見ればそれは一瞬のことで、偶然手が当たったというふうに見えなくもなかった。しかしそれは偶然などではなくて。
なぜなら、ももにとって鎖骨を触られるという行為は、特別な意味を持つ行為だったから。

「…もも、大丈夫?」
藤堂が体を寄せて、小声で話しかけてきた。
「うん…。」
ももは小さく頷いて、先ほど青山が触れた自分の鎖骨に手を当てた。
今日、広めVネックのカットソーを着て来たのには意味があり、そこに青山は気づいたのかもしれないと思った。

付き合っている頃、青山はいつも、ももの鎖骨が綺麗だと褒めてくれていた。何度もそこに触れて、何度もキスをくれた。その感触を思い出すだけで、体が反応しそうになる。
だから…。
今日の服装は、青山のためだ。青山に、もう一度自分を見てほしくて。でもそんなことは無理だともわかっていて。
あんなに辛い思いをしたというのに、少しの期待を抱いている自分が嫌になる。そうは思うのだが。

「また来てよ。待ってる。」

さっきの翔太の言葉。
あれは朱里と相良くんに向けた言葉?それとも…。
ももは、二杯目のビールも一気に煽った。

「長瀬さん、今の人誰ですか!?」
倉嶋が、ものすごい勢いでテーブルに身を乗り出した。
「めっちゃかっこいいー。」
そう言って青山の後ろ姿を眺める。
「この店の店長さんだよ。青山さん。」
ビールグラスを睨みつけているももの代わりに、藤堂が横から口を出した。
「彼女とかいるんですかね?紹介してくださいよぉ。」
倉嶋が体をくねくねと揺らす。
「はいはい、今度ね。」

そんな倉嶋の横で、橘が前髪の奥のヒビが入ったメガネの奥から、ももをじっと見つめていた。
当然ももがその視線に気づくことはなく、藤堂と相良が止めるのも聞かずにひたすらビールを飲み続けた結果…。

記憶のない夜を過ごすことになる。
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