青春は、数学に染まる。

デリカシー

夏休み中の補習は9時から始まる。

しかし、今日は何となく早く学校に行って、生徒の少ない校舎内をフラフラしたい気分だった私は、30分早く学校に着くように家を出た。



“学校”という場所が好きだ。

建物も好き。教室という空間も好き。窓の外を見ると、向かいの棟の教室が見える感じも好き。長く続く廊下も好き。
 




この学校には科目ごとの準備室がある。

その準備室に教員机が置いてあり、先生たちが過ごしている。



職員室にいることの方が少ないかも。社会の先生はそう言っていたっけ。


私はこの「準備室」というものの存在が好き。


どう好きなのかって問われても上手く答えられないけれど、好き。



それについては誰も共感してくれないけど…。




「あれ、藤原」
「げ…」
「げ、じゃなくて。おはよ」
「おはようございます」


本当に狙っているのでは無いかと思うくらい、伊東との遭遇(そうぐう)率が高い。

先生も生徒も沢山いる中で、こんなにピンポイントに伊東と会う?



「補習はまだだろ。早くないか? 何しているの」
「探検です」


不覚…。不覚だ。
今日はいつもビッシリ締めているネクタイをしていない。そして、シャツの第二ボタンまで開けていた。


不覚にもときめいてしまった…。


「探検って…。そんな面白そうなものあるか?」
「伊東先生に言っても理解されないと思うので良いです」
「なっ…」


伊東はわざとらしく(てのひら)をこちらに向けて驚く。

「じゃあ、探検続けるので」

私は無視して先へ向かおうとすると、伊東もついてきた。


「何でついてくるんですか」
「いや、探検ってどんなものかなと」
「先生には関係ありません」

我ながら上手く突き放せている…と感心した。
 
伊東には効果無さそうだけど。



というか、本当に何でついてくるのか理解できない。


「そんな冷たい事言わないでよぉ~…」
「あまり付きまとっていると、色んな人に良からぬ誤解(ごかい)をされますよ。私と伊東先生には、本来接点無いんです」
「冷たすぎる…」

そう言ってクククと笑った。本当にこの人には私の言葉が全然届かない。


何を言っても伊東は心折らずに話し掛けてくる。

「ところでさ、昨日見た練習の様子どうだった?」

どうだったって…。
本音はかっこよかった。…言わないけれど。


「まぁ、普通でした」
「何それ! 俺、表向きは高校教師だけど、空手家の一面もあるの」
「はい」
「俺は藤原に練習見てもらえて嬉しかったんだけど」


…それで?
何と答えるのが正解か少し悩む。


そしてふと、有紗の言葉が頭に浮かんだ。



『伊東先生のその様子、絶対恋しているよ!!』



いやいやいや! ないない!

強く頭を振って、その言葉を頭から追い出す。

「空手部の友達に聞いたんですけど、先生は自分が空手している様子見られたくないみたいじゃないですか。どうして私は良いんですか」
「………それはね、秘密」
「意味わかんない」

伊東はどこまでもついてくる。暇人か。

「で、先生はいつまでついてくるのですか」
「今お前、数学科準備室に向かっているんじゃないか?」
「そうですけど」

伊東が鬱陶しいから探検を止めて補習に行くことにした。

どっか行ってくれたら良いのにと思っていたのに…。

「ははっ! 残念だな。俺も目的地そこなんだよ」

そう言ってニカっと笑った。



そういえば…伊東も数学教師だったわ…。いつも忘れる。



「先生、1つ言っておきますけど。こうやって普通に接してくることによって過去のデリカシーの無い失言を許してもらおうとでも思っているなら大間違いです」


伊東は少し驚いた顔をした。そして、少し顔を下に向けて唇を(とが)らせた。


「前のこと、無かったことにしようとしていませんか? …残念なが、私の傷ついた心はそう簡単に元に戻りません」
「………そうよな。…いや、謝れば済むとは思っていないが、何というか……その…」


伊東はそこまで言って黙り込んだ。
そのまま伊東が言葉を継ぐことは無かった。





「あ、藤原さん。おはようございます」
「早川先生。おはようございます」


数学科準備室まであと数メートル。そんな所で別の場所から早川先生が現れた。伊東とのこの気まずい空気をどうしようか悩んでいたからグットタイミング。


「早いですね。やる気が感じられます」
「やる気というか、探検していたのです」
「探検ですか。楽しそうですね」


ニコニコと私に話し掛けてくれる早川先生。

そのまま目線を伊東の方へ向ける。顔から笑顔は消え、少し睨むような目付きで伊東に話しかけた。


「伊東先生もおはようございます。何故朝早くから藤原さんと一緒なのですか」
「いや、偶然出会って」
「前にも言いましたよね。藤原さんと接点がない貴方は無理して関わる必要ありません。僕の教え子です。貴方は伊東ファンクラブの生徒たちとだけ関わっておけば良いのです」


早川先生は非常に冷たく言葉を放った。あまりにも冷たすぎて心底(しんそこ)驚いた。

ていうか、ちょっと待って。
伊東ファンクラブって何??



「藤原さん。今日も移動しましょう。準備をしてきますので、ここで待っていて下さい」
「はい」


早川先生は数学科準備室に入って行った。

伊東は悲しそうな表情で私を見た後、少し微笑んで手を挙げて、数学科準備室に入った。


「本当に意味わかんない…」


伊東の全てが、理解できない。





「藤原さん、行きましょうか」

思ったより早く出てきた早川先生。
向かう先はいつも通りの空き教室棟。

「藤原さん」
「はい?」
「伊東先生のこと、どう思っているのですか?」
「え?」

何、突然。
こちらを見ずにそう問う早川先生。表情が見えず、感情が読めない。

「どうって…。デリカシーの無いクソ教師ですかね」

そう言うと、早川先生は吹き出すように笑った。

「ふふふ、そうですか」

渡り廊下に入る手前、早川先生はふと振り返って私を見た。


「伊東先生の相手、全てする必要なんてありませんから」
「そうは言っても先生なので。無視する訳にもいきませんし…」
「いえ、ある程度は無視で大丈夫です。藤原さんは優しいのですね」



早川先生は微笑んで再び歩き始める。
そして空き教室の鍵を開けて、普通に補習を開始した。






いや…何だろう。先程のやり取りに妙な違和感。
 

早川先生も、何を考えているのか分からない。





さっきの言葉の意味が分からなくて、心がモヤモヤした。












  
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