青春は、数学に染まる。

介助


日は沈み、気付けば外は真っ暗になっていた。

どのくらい話したのだろう。
早川先生とは、他愛のない雑談を繰り返した。





そしてその間、誰も来ることは無かった。



「結局、誰も来なかったですね」
「誰もって“誰を”()した言葉ですか?」
「“誰か来るまで”って先に言ったのは早川先生ですよ。先生の意地悪」


私は部屋の右奥に置かれた伊東の机に目を向けた。
書類や本が山積みになっている。今日は休みだったのかな。


「伊東先生なら、当分来ません」
「…え?」

早川先生も伊東の机の方を向いて言葉を継いだ。

「僕が先に手を出したとはいえ、伊東先生はやはり空手の有段者。僕が骨にひびが入るくらいの怪我を負った以上、謹慎(きんしん)となるみたいです。ただ、表向きは謹慎じゃなくて長期出張ですが」

長期出張とか不自然すぎるでしょ…。そう思ったが、嘘も方便なのかもしれない。

「まぁ、僕は悪い事したと思っていませんから。謹慎でも出張でもどうでも良いですけどね」

冷たく吐き出される言葉に、早川先生の感情が全て込められている。




「ところで先生、眼鏡が壊れて授業も出来ないくらいでしたら休んだ方が良かったのではないですか?」

ふと疑問に思いそう問うと、先生は小さく笑った。

「こういう時に限って、どうしても欠席できない会議があるものです」
「なるほど…」

大人って大変だ。そんなことを思う。

「因みに、僕の怪我は階段から落ちた事にしますので。そのつもりで居て下さい」

階段って…。良い大人が階段から落ちて怪我する?

「先生、この前も転んで顔を怪我したことになっていますけど。かなり鈍臭い人だと思われますよ」

私がそう言うと、先生はほんの少しだけ顔をムッとさせて唇を尖らせた。

「いや…そんな顔しますけど、他の生徒はそう思いますよ」
「まぁ、確かにそうですよね」



松葉杖を手に取ってゆっくり立ち上がった。

「さて。藤原さん、一緒に帰りましょうか。とは言っても、治るまで車を運転出来ないのでタクシーですけど。一緒に乗って行きませんか?」
「い、いや…でも…」

もう遅い時間とは言え、校内には先生も生徒もいるだろう。2人でタクシーに乗るところ見られたら…要らぬ噂が立つ。

「でも、じゃないです」
「誰かに見られると困ります」
「それなら大丈夫です。今の僕、周りが見えないのですから」

そう言いながら早川先生は私に顔を近付けて来た。
急な至近距離に心臓が飛び跳ねる。

「このくらいの距離で、やっと藤原さんが見えます。つまり、今の僕は藤原さんがいないとタクシーにすら乗れないのです。人助けだと思ってください。誰かに見られてもそれが充分な理由になります」

な、なるほど…? まぁ、見えないのは分かった。

「…でも、先生。朝はここまでどうやって来たのですか」

朝だって条件は同じだろう。
不思議に思い問うと、先生は笑って誤魔化した。

「ふふふ」
「いや…。ふふふ、じゃないですよ」
「とにかく、外に行きましょう」

そう言いながら早川先生は、手探りで鞄を手に取った。
そして鞄の中も手探りで漁って眼鏡を取り出す。

「見えないって嘘じゃない!!」

いつもの銀縁眼鏡とはまた違うデザインの眼鏡だ。
眼鏡が変わるだけでかなり印象が変わって見える。

「度が全く合っていないので、見えないことには間違いありません。明るいと何となく見えますが、暗いとダメです」

本当に階段から落ちてしまいます。と小声で付け足した。

「とにかく大丈夫です。同好会の顧問と会長だから一緒に行動していても不自然ではありません。行きますよ」

早川先生は鞄を肘に掛けて、鍵を手に持ち、松葉杖を脇に挟んだ。

不自由そうな先生。本当に階段から落ちると…困る。


「……分かりました。先生、鞄持ちます」

先生の肘から鞄を取る。大きな黒いビジネスバッグはそこそこな重さがあった。


「ありがとうございます」



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