ようこそ、片桐社長のまかないさん

2 片桐社長はこんな人

空き地でテントをたたみ、少ない荷物を運び込み、シャワーを浴びたりしていたらとっくに昼が過ぎていた。

今日はゆっくり休めと言われたけれど、そんな悠長にもしていられず一階のお台所に顔を出した。

「ああ、凛ちゃん。お昼ご飯に声掛けたんだけど、いなかったみたいだから居間に置いといたからね。チンでもして食べてちょうだい」

女将さんが忙しなく、お玉を持ってコンロとシンクを行ったり来たりしているところだった。

「私の分まですみません。あの、私ここで賄をさせていただくことになりまして」

「航から聞いてますよ。助かるわ―。もう大鍋かき混ぜるのも肩が上がらなくてね」

先ほどは情報量が多すぎて良く分からなかったけれど、女将さんは背筋がしっかりと伸びスラッとした綺麗な人だった。着物の上から着た割烹着がとても様になり、それこそ料亭の女将みたいだと思った。

「今日からお世話になります。急なことで本当にすみません」

「いいのよ。航はいつだって急なのよ。明日から大変だと思うけどよろしくね」

「いえ、あの、今からお手伝いさせてください。お邪魔でなければ」

「まあ、働き者ね。ふふ。杉崎さんそっくりね」

「あ、祖母をご存じなんですよね……」

「まあ、ね。お友達だったのよ。それより早く食べなさい。お腹すいてるでしょ? 仕事なんて後、後」

その時いただいたご飯は、ブリの煮付けに新鮮なお刺身、筑前煮、白和えとお味噌汁に麦飯だった。

同じ郷土だからか、同じ港の魚だからなのか、祖母の手料理と似た味がした。ここ数年落ち着いた食事をしていなかったことを思い、食べながら涙が出てきた。



「あ、お帰りなさい」

航さんがお台所に顔を出した時には夜の7時を回っていた。

「あれ、スーツ……」

女将さんから借りたエプロンで手を拭きながら、ボーっと航さんのスーツ姿に見とれた。

よく日焼けした肌に着た白シャツに小洒落たジャケット、ツーブロックの長めのトップをピシッと固めた姿はまるで都会の敏腕若手社長だった。

「ああ、客と会うから事務所で着替えて……。ってそんなことよりお前なんで仕事してんだよ」

「え? 部屋でボケッとしてられなくて。今日から居候させてもらうのに」

「いいっつってんのに。……空き地のテントしまってやるかと思って帰りに通ったら何もなくなってたけど」

「昼間に自分で片付けたから」

「おま……。あの大雨の中?」

「え? うん」

なにかすごい物を見る目で航さんがじっと私を見る。

「凛ちゃんは仕事が早いのよ。なめちゃダメよ」

居間から戻ってきた女将さんがニコニコと言った。居間ではお腹を空かせた港町の男たちがガツガツと晩飯を喰らっている最中だ。

「凛ちゃーん。おかわり♡」

居間から台所に続く襖を開けて、お茶碗を持った富山さんが顔を出した。

「飯のおかわりくらい自分でやれ。そっちに炊飯器持ってってるだろ」

「げ、航さん戻ってたんすか。はーいすんませーん」

富山さんがすごすごと襖を閉めると、航さんは「ったくあいつ浮かれてんな」とつぶやいた。

「あいつらに変なことされてないだろうな」

「変なこと? いえ全然。皆さん元気でよく食べてるけど」

「ほらほらしゃべってないで、航と凛ちゃんも夕飯食べちゃいなさい」

女将さんに言われるがままに居間へ行って空いている席に着いた。

大きな円卓を囲んで、八人の男たちが気持ち良いくらいにご飯を口にかっ込んでいる。

独身男性と言うだけあって若い人が多く、五人が私と同じ二十代、二人が三十代で一人だけ19の若い男の子という分布だそうだ。先程初めて会った時に富山さんが教えてくれた情報だ。

富山さんは私と同い年の25歳だそうだ。

「……珍しいな、ポテトサラダ?」

隣に座った航さんが言った。

「そうそう。ジャガイモをたくさんもらって困っててね。凛ちゃんがポテトサラダにしてくれたのよ。余ってた鮭も入ってるのよ」

いつの間にか正面に座って食べ始めていた女将さんが言った。

「うまいっすよ。早く食ってみ」と声の大きな富山さんが言って、航さんが富山さんを呆れた顔で一瞥する。どうやらこの二人は仲が良さそうだ。

「いただきます」

航さんは箸を綺麗に持って、通った声でそう言った。

海賊のように血気盛んに見える従業員たちの中で、航さんも日焼けし良いがたいをしているのに繊細で上品に見える理由は、こうした所作の美しさにあるのだと思って見とれた。

(まあ、顔立ちの良さがずば抜けてるからっていうのもあるか……)

「うん、うまい。女将はこってりしたボリュームのあるものをはあんまり作らないから。こういうの作ると漁に出てる奴らは特に喜ぶ」

航さんがこそっと私に耳打ちした。

余りに顔が近くて、私は目を逸らしたままコクコクと頷いてやり過ごした。

「つーか航さん、こんな可愛い賄さん雇うのなんで隠してたの」

富山さんが米を飛ばしながら言った。

「ああ、明日紹介しようと思ってたんだけど。今日からうちで住み込みで働いてもらう凛さん。ちょっかい出すなよ、健二」

「住み込み? この町の子じゃないよね? 初めて見る顔だけど」

年長の根岸さんが言って、私が返答に困っていると航さんが「ああ」と口を出した。

「近くにお祖母さんの家があったんだそうです。その関係で東京からこっちに来てるんです。この町のこと詳しくないので教えてやってくださいね」

航さんは年上の従業員には敬語を使うようだった。若くして家業を継いだからなのか、社長と呼ばれても偉ぶる雰囲気はない。

「へえ。なんだ。航さんが東京にいた頃にむこうで作った彼女かと思った」

武田さんが言うと、航さんは「まさか。冗談やめてくださいよ」と笑った。

東京にいた頃? と私はお茶碗を持ったまま止まって考えた。

「航さんは都内のエリート大を出てすごいとこに勤めてたんだよ」

顔に疑問符を浮かべていると富山さんがそう説明してくれた。

「都内で何の仕事を?」

黙々と食べる航さんに問うと、「経営コンサル」と端的に答えが返ってきた。

だから水産業兼経営コンサルをやっているのかと納得した。

経営コンサルティング会社の『すごいところ』って。かなり優秀でないと入れない年収の高い職業だ。

女将さんが晩御飯を作りながら教えてくれた。一昨年女将さんの息子、つまり航さんのお父さんが亡くなりそこから航さんが会社を継いだと。

東京でしていた仕事を数年で辞めてこの田舎の港町へ。その道筋は同じはずなのに、私と航さんはこんなにも違う。

(恥ずかしいな。)

一丁前にそんなことを思う自分が更に恥ずかしくなって、持ったままだった茶碗のご飯を慌てて掻き込んだ。

晩御飯を綺麗に平らげると、それぞれがポツポツと帰宅し始めた。私と女将さん、最年少で唯一の十代、(ひびき)君で後片付けをした。

響君には誰も片付けを強要していないそうだけれど、自主的にいつもしてくれるらしい。

飄々とお皿を拭き続ける真面目な姿が好印象だった。

全てが片付いて響君が家を出、女将さんと明日の朝ご飯の仕込みを終えた時には10時を回っていた。

女将さんはこれを何十年もこなしてきたのかと思うと頭が下がる。少しでも早く仕事を覚えて役に立ちたいと思った。

初仕事を終えて部屋へ戻ろうとお台所を出ると、居間の隣の和室に航さんの姿があった。

パソコンに向かって何やらまだ仕事をしているようだ。

その初めて見る眼鏡の横顔に少しの間見とれ、気づかれない内に部屋に戻ろうと思った。その時。

「まだ掛かるから先に風呂入ってろ」

パソコンから目を離さずに航さんが廊下から覗く私に向かって言った。

見ていたことがバレていたのかと顔が熱くなり、「ふぁい!」と変な返事をしてしまった。

廊下をバタバタと逃げる。航さんのクスクス笑う声が少しだけ聞こえた。

(先に風呂入ってろって。何その新婚みたいな……)

航さんが帰宅後すぐに入るかもしれないと、実は夕方に部屋の風呂の湯船に湯を張っていた。

けれど家主兼雇い主よりも先に風呂に浸かる訳にはいかないのでシャワーで済ませ、ドライヤーを拝借。

髪をかき上げながらぼんやりと考えていた。

(やっぱり航さんはあの『片桐さん』だ。)

私が一ヶ月前に辞めた会社を以前担当していた経営コンサルタント。一度だけ社長室から出てくるのを遠目に見たことがあった。

同僚の女の子たちが騒いでいた。

24の若さでうちの会社を任されるほどの逸材。色気ダダ漏れのイケメン敏腕コンサル。

すぐに担当が変わってしまったと秘書課の同期が残念がっていたけれど、きっとお父さんが他界して仕事を辞めたタイミングだったのではないか。

その同期が見せてくれた片桐さんが取り上げられたビジネス雑誌を今でも良く覚えている。

新進気鋭の24歳、コンサルタントファームに旋風を巻き起こす。という煽り文句が書かれていた。

あの雑誌の写真はもっと色白で身体つきも今より細いイメージ、根っからの都会エリート王子といった感じだったので、この片田舎で出会い名前を聞いてもピンとこなかった。

(今の方がずっと素敵だな……)

ぼんやりしたままベッドへ戻り腰を掛けたところでガチャリと廊下のドアが開いた。

「あ、お疲れ様……」

私が慌ててそう言うと、眼鏡を掛けたままの航さんは固めた髪を掻き上げ、疲れた表情で微笑んだ。

やめてほしい。その無作為な色香。

スーツと眼鏡がいけない。早く眼鏡を外して風呂に入り着替えて寝てほしい。

「風呂、入ってくる。待ってて」

そう言い残して、航さんは脱衣所に入っていった。

(待つ?! なぜ????)

この、私の部屋を通らないと航さんが生活できない間取り、思っていたよりずっと厄介だ。

私の心臓がもちそうにない。

「お前、湯船入ってねーだろ」

髪を濡らした航さんはパーカーにスエットパンツ姿で出てきた。

眼鏡を外していることにほっとしたはずなのに、隙だらけの部屋着姿に目のやり場が定まらない。

「流石に先には入れないから……」

ベッドの壁際に腰かけて足を縮めた。風呂上りも当然のごとくダダ漏れている航さんの色香から身を守らなくては。

「明日からは先に入れよ。じゃないと俺が仕事を途中で切り上げて風呂入りに帰ってこなくちゃいけなくなる」

「それは……困る」

すると航さんはベッドに片膝をつき壁に寄り掛かる私の頭に手を伸ばした。

「困るだろ? 明日からは先に入ってろよ? な?」

「はい……」

私の頭を撫でる航さんを恐る恐る見つめ上げると、満足そうに笑っていた。

生真面目すぎる私の扱い方を既にマスターしている航さんに対して、悔しい気持ちと妙な嬉しさが込み上げてきて困った。

「いつまで撫でてるの」

「んー? 気が済むまで」

航さんは気が済むまで私の頭を撫でまわすと最後は髪をぐしゃぐしゃにしていたずらに笑った。

(どうもこの人は距離感がバグってる)

一日でこんなにパーソナルスペースへ軽々と踏み込んでくる人は初めてだった。

それをこんなにも簡単に受け入れている自分にも驚く。

天性の人たらし。そういう特別な人がいることは知っていたけれど、正にこの人がそうだと思う。

「賄さん、どうだった?」

ベッドに腰掛けると航さんは肩のタオルで髪を拭き拭き訊ねた。

「すごく楽しかった。自分が作ったもので目の前の人が喜んでくれるなんて初めてで。早く女将さんみたいに動けるようになりたい。いろんな料理の作り方を覚えたい」

「大変じゃなかったか?」

「大変だったよ。午前はお弁当の仕込みもあるんでしょ?もっと大変だと思うけど、楽しみだよ」

仕事をさせてもらえる。誰にも理不尽に責め立てられたり、性的な嫌がらせを受けることもない。私の本質を誰も否定しないでいてくれる。

そんな優しい世界に拾われて、怖くなった。ここにある温かさを奪われてしまわないか。

また嫌なことを思い出してしまった。

「なんでも前向きにとらえて行動できるって何よりの強みだって知ってる?」

「え?」

「環境を嘆いたり、人のせいにしたり、嫌々行動すると何もうまくいかないしどこに行っても幸せになれない」

航さんは優しい顔で私の頬に手を伸ばす。

「凛はすごいね。あの女将が初日に一品任せるなんて信じられない。俺の母親は嫁いですぐに台所に入ったけど、女将に一品作らせてもらうまでに一年以上かかったって言ってた」

「え……でしゃばり過ぎちゃったかな」

「凛の実直さに打たれたんだろ」

優しい表情で、航さんはそう言った。泣きそうになるのをぐっと我慢した。せっかく褒めてくれているのに情けない。

この人は、人を扱うプロだ。だから絆されてはいけない。仕事のことで褒めてくれているだけだ。

なのに、温かい指が頬を撫でる度に気がおかしくなりそうになる。

「東京で何があって逃げてきたのか今は訊かないけど、助けが必要なら助けるからな」

「ありがとう……」

そう言うのが精いっぱいだった。

「ちょっと……」

余りに顔が近づいたので、そう言って止めた。

「なんで……キスしようとしてる?」

と、くっ付きそうになる唇からやっとのことで逃げ出して私は背後の壁に頭を強打した。

「今の、かなり痛かったんじゃねーか? 大丈夫か?」

目の前で顔を覗き込んで後頭部を撫でられる。何この状況。

「だ、大丈夫……」

「なんでキスしようとしてんだろうな、俺」

真顔でそんなことを言う。なんでだろうな、じゃない。

「ダメ?」

「ダメでしょう」

そう言って、迫りくる航さんの唇を両手でふさぐと、ペロッと掌を舐められた。

「ちょっと!!」

「舐めてほしいのかと思って」

「そんなわけないでしょう」

手が離れたところで、隙ありとばかりに航さんが更に顔を寄せてきた。

体を強張らせ目をぎゅっと閉じると頬に柔らかいものが触れた。

顔が熱くて息が苦しい。ようやく離れた航さんはイタズラな顔をして私の反応を観察する。

「なに、急に……」

絞り出すように言った。唇を寄せられた頬がジンジンする。

「英国風の挨拶?」

私の右耳をもてあそびながら航さんは上機嫌にそう言った。

「英国出身の方ですか」

「いえ、一年ほど交換留学しただけです」

「かぶれ過ぎでしょう」

航さんは本当にからかっているという顔をしている。

イタズラをする子供みたいに八重歯をチラリと見せて。

航さんにとってこの行動の意味はなに?

この港町には若い女がいないのだろうか。確かにこの一週間見かけていない。

もしそうなら気の毒な気もする。

都内に居たなら航さんは女性に事欠かなかったはずだ。

気を確かに持つためにそんなことを考えていると、航さんの左手の愛でる対象が私の耳から髪に変わり、前髪同士が接してしまいそうな距離に呼吸が乱される。

「反対の頬にもしてほしい?」

「もう、からかわないで」

私は立てた膝に顔を逃げ込ませた。すると無防備な頭頂部にまた航さんの唇が寄せられて、チュッと小さな音を立てた。

「……キス魔なの?」

「なんだと思う?」

そう囁かれ、耳に航さんの息が掛かる。

「キス魔の酔っぱらい!」

私がそう言い放って航さんの両肩を押し距離を取ると、航さんはされるがままになりながらクスクスと笑う。

「酔っぱらってねーよ。飲んでなかっただろ?」

その声と表情の優しいこと。整った顔立ちが余計に航さんへの興味を引き立てる。

「嫌われたら元も子もないからな。今日はこのくらいにしとく」

航さんはそう言うと私の頭を引き寄せておでこにキスをした。

「おやすみ」

何事もなかったように航さんは引き戸の奥に消えていった。

私は航さんに触れられたところが全部熱くて、胸の波打ちが激しくて、落ち着かせるまでに随分と時間が掛かりそうだ。

航さんはどういうつもりなのか。からかっているんだろうか。

心臓だけが騒ぐ中で、私はベッドに横になり、静まるのを待った。

今日はいろんなことがあり過ぎてこれ以上考えられそうにない。キャパオーバーだった。
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