ようこそ、片桐社長のまかないさん

8 片桐家のお客様

5時のアラームで目が覚めた。

昨日のあの状況の中で目覚ましをセットした自分を褒めたい。

控えめの音量にしていたとはいえ耳元でアラームが鳴ったと言うのに、航さんは目覚めなかった。

よっぽど疲れているのかもしれない。昨日も一日休みと聞いていたはずだったのに、結局昼過ぎまで仕事部屋にこもっていた。

そんな中、買い物に連れ出してくれ、夜は二度も抱いてくれた。

(いやいやいや、『抱いてくれた』って。)

心の中で一人で突っ込みを入れながら下着を探した。途中見付けた航さんの着衣を畳んでソファに置く。

昨夜はそう、抱かれたのだ。その語感に慣れなくても、抱かれたのが事実だ。

あと一週間後という約束だったけれど、前倒しして。

そもそもその約束もなんだったのだろう。

「まだ抱かない約束だったのにな。自分で言っておいて反故にするとか情けない」

航さんは情事のあとベッドに身を委ね息を整えながらそう言った。

航さんは一度言ったことを覆したり約束を破ったりしない人だと、この三週間共に過ごして知った。

そんな人が。あと一週間の我慢ができずに、抱いてくれた。

それが私の胸の辺りをウズウズとさせた。

着替えを終えてベッドに腰掛ける。私の重みでベッドがきしむと、航さんは寝返りを打って壁際を向いてしまった。

肩甲骨の辺りの引き締まった筋肉が、今は無防備に緊張を緩めて私のベッドに収まっている。

そっと肩甲骨に触れた。別に元々筋肉好きとか肩甲骨フェチとかではない。

だけど昨日の航さんの溢れ出す色気が思い出されて肌の硬い部分に触れたくなった。

唇を近づける。唇が触れると、航さんがびくりと体を震わせてこちらを向いた。

「凛? もう台所?」

目を擦りながら航さんが私の頬に触れる。

「うん。起こしちゃってごめん」

「なに? 背中にチューしただろ?」

「起きてたの?!」と私は仰け反った。色気もへったくれもない自分の動きに嫌気がさす。

「寝てたけど。もう起きたから口にもして」

毛布から裸体を覗かせて、航さんは掠れた声で言う。

こんなの、我慢できる女などいないのではないかと思う。

口付けすると、甘い味がした。昨日の、いつもよりも興奮して雄の顔をした航さんが浮かび、キスだけで声が止まらなくなる。体の芯が反応してしまう。

「もっかいする?」

航さんはキスをしたまま小さく言う。

また、してくれるの? と腰の辺りが変な期待をしてうねる。

「もう行かないとだよ」と、自分にも言い聞かせるように言った。

「じゃあ、今夜な」と、航さんは私をベッドに引き込むように抱き寄せて言う。

そんなことを言われると今日一日ずっと今夜のことを考えてしまいそうで怖い。

そう思いながらも、もう抗えない私はコクンと小さく頷いた。

「あー。そうだった。今夜は……」

航さんは突然片手で額を抑えながら天井を仰いだ。

「なに?」と私は航さんの胸から顔を上げる。

「あの人が来るんだった。……部屋に戻るのが遅くなるかもな」

「あの人?」

キョトンとする私を尻目に航さんはまた甘い瞳に戻って私の耳を弄んだ。

「お前は先に寝てろよ。寝てたら勝手に触るから」

「ええ? そんなのダメ……って、誰が来るって?」

航さんは甘い瞳を引っ込めると小さくため息をついた。航さんのこんなため息なんて初めて聞いた。



「どうもどうも、お世話になっとります」

居間に入るなり大柄の男性はキャップを取り、女将さんに仰々しい挨拶をした。

「こちらこそいつも大変お世話になっております。本日はゆっくりお過ごしくださいませ」

女将さんは深く頭を下げてそう挨拶をするとすぐにお台所に引っ込んだ。玲奈さんも女将さんの隣で頭を下げ一緒にお台所に行ってしまった。

私はどうするべきか分からず、彼がやってきてその場で立ち上がっていた従業員たちに紛れていた。

すると彼の後から居間に入ってきた航さんが、若手の従業員を軽やかに紹介し、最後に私のことも紹介した。

「先月からうちの賄をしている倉木凛です。今日の食事も彼女が半分担当しています」

私が慌てて頭を下げると、彼は適当に私に片手を上げて見せた。

五十代そこそこ。この年代の男性特有のふてぶてしさをしっかりと持ち合わせていると見受ける。

倉木とは、航さんが私に便宜的に使わせている苗字だった。従業員たちもみな私を倉木凛だと思っている。ストーカーを懸念してのことだった。

お台所へ行くとお酒の準備をしている女将さんと、その横でブーブーと文句を言っている玲奈さん。私は玲奈さんの隣で用意を手伝う。

「私夜ご飯いらないってば」

玲奈さんが言うと、女将さんは「バカなこと言わないで」と取り合わない。

「玲奈さんどうかしたの?」

「私、苦手なの。あのおじさん。前に来た時には私、コンパニオン扱いされた」

「お酒を注ぐよう言われただけでしょう」

女将さんが手を慌ただしく動かして瓶ビールの栓を抜きながら言った。

「嫌だよ私。隣に座らないからね」

「玲奈。仕方がないでしょう。ある程度は我慢してちょうだい」

女将さんが珍しく厳しい顔をする。

「漁業組合の組合長さんってそんなに忖度しなくちゃいけない相手なんですか?」

私はまっすぐ女将さんに訊ねた。家業とは関係のない19歳の女の子が、仕事関連の客のお酌をしなくてはいけない意味は私にも分からない。

航さんはそういうのが嫌いなはずだ。

「あの人はここの組合長なんだけど、今の県魚連の会長でもあってね。航の父親も大変お世話になった人なのよ。理想論だけではどうにもならない相手ってところかしら」

女将さんはにっこりと微笑みながらそう言った。

「航さんの今のお仕事にとっても重要な人物であると……」

「もちろん」

「じゃあ、私がお酒のお相手をします。玲奈さんのような美人ではないけど、響君がお酌するよりはいいでしょう」

玲奈さんはムスッとしたまま女将さんと私を交互に見る。

「……ごめんね、凛ちゃん。愛想のない玲奈よりずっと適任だわ」

玲奈さんは「なんで凛さんまでそんなことしなくちゃいけないのよ……」とブツブツ言いながら居間に戻っていった。

私は女将さんから受け取った瓶ビールを五本抱えてそのあとを追った。

玲奈さんはちゃっかりと従業員と響君の間の席を確保して涼しい顔をしていた。

私は脂ギッシュで日焼けしたおじさんの隣に膝をつきビールを置いた。

航さんはおじさんの反対側のお隣で、完全なる営業スマイルで楽しげな話をしていた。

「お疲れ様でございます」

私は小さな声でそう断りを入れると組合長のコップにビールを注いだ。

組合長は、その手には小さく見えるビールコップをおちょこのように持って、私に目配せをすると満足げに飲み始めた。

接待され慣れているのだろうなと思った。女の子がお酌をするのが当たり前という態度だった。

「飾りっ気のない家政婦だなこりゃ」

ビール瓶を二本空けると、組合長は案の定な文句で私に絡んで来た。航さんが仕事の電話に立ったタイミングだった。

「家政婦はそもそも飾りっ気のないものでは? 家事に装飾は不要ですから」

私がにこやかに言うと、組合長はふふんと笑った。

「それはそうだ。理にかなってる」

と酔っているのかよく分からない返答をされた。

今日ばかりは、一緒にお酒を飲む従業員たちもそんなやりとりに愛想笑いを浮かべるばかりだった。

「分かった。今日はもう家政婦はやめやめ。お前さんも飲めばいい」

何が分かったなのかしらと思いながら、言われるがままに注がれたビールを飲む。

女将さんがさりげなくお酒とつまみの残量確認をし、立ち去り際にごめんねという感じで私の肩に手をかけていった。

「お嬢さん、いける口だね」

「恐れ入ります」

軽くコップを空けると次を注がれ、仕方なくまた飲む。

この人、多分悪い人ではない。けれど古い人間だ、この田舎だし女を雑に扱うのは百歩譲って仕方がない。いやなセクハラもしないし、悪い人では……。

と思っていたら、突然ガッツリと肩を組まれた。

富山さんが一瞬あちゃーという顔をして、それを笑って誤魔化している。

響君はまだ未成年でお酒も飲めないし、いつもの飄々とした感じで私たちを遠目に観察する。

玲奈さんに至っては先ほど自室に戻ってしまっていた。

私の肩を掴む指が動く度にブルりと震えそうになる。

誰も助けてくれないなぁと思ったところで五杯目を空けた。

ポマードと脂が混ざった臭いがする。これは前の職場でも嗅いだ嫌な臭いだ。

「いいペースだ。もう一杯いこう」

肩を組んだままビールを注いでくる。お酒は弱くはないので別に構わないけれど。

ややあって、ようやく航さんが戻ってきた。

ここでわざとらしく助けを求めるような顔をしてはいけないと、至近距離でどうでもいい武勇伝を語り出した組合長にニッコリと微笑んで見せた。

航さんに安心して欲しかった。こんな私だけど、この場はちゃんとやってます。

すると航さんはひどく怒った顔を一瞬だけ見せた。

「組合長、すみませんが手を離してくださいね。彼女はうちの大切な従業員です。コンパニオンではありません」

航さんは人当たりの良い笑顔で組合長の腕を掴んだ。

「おお? 悪い悪い、隣に若い子がいるとついついね」

「そのようなお酒がよろしければ、ぜひ県魚連の方々とお店でどうぞ」

航さんの圧倒的なキッパリとした物言いに、組合長も酔いが覚めたように「すまんすまん」と繰り返した。

(別に私は平気だったのにな。)

組合長がどれだけ航さんにとって重要な相手か分かる。

先ほど二人で話していたのは市の漁業組合の来年の事業計画についてだった。航さんは一組合員でありながら運営の助言を求められている立場だ。

航さんと先代の社長たち、女将さんたちが守り積み上げてきたものを壊したくない。

私のこの場でする我慢なんて、航さんの背負うものと比べたら。どうだっていいことだった。

「組合長、まだビールでよろしいですか? 他のお酒をお持ちしますか?」

私はシンとなった雰囲気を取り持つようにごきげんに言った。別にホステスでもコンパニオンでも良かった。

ただ、休みもほとんど取らずに会社の為に働く航さんの努力の結晶を守りたい。

「ああ、じゃあ焼酎をもらおうかな」と言われ、様子を見ていた女将さんに目配せをした。

給仕のように扱ってしまい申し訳ないけれど、下手に逃げるような真似はしたくなかった。

その後もまた上機嫌に戻った組合長に付き合い焼酎と日本酒も飲んだ。

航さんは飲むフリをするのが上手くて、ほとんど飲んでいなかったけれど、組合長は気が付いていなかった。

12時を回る頃、私は従業員の最後の一人と一緒に居間を出た。組合長はまだ帰ろうとしないので、航さんと女将さんが付き合っている。

(ああ、久々に飲んだ。)

部屋のベッドにダイブすると急に酔いが回ってきてポワンポワンと体が暖かい。



凛、凛と呼ばれた気がして目が覚めた時には、航さんが目の前にいた。

胸元がスースーすると思ったら、航さんがキスしたところが冷えた後のようだ。

航さんは無表情で私の顔をじっと見ている。

航さんがいる。航さんが私のベッドにいる。嬉しい。

「航さんおかえりなさい」と私はにっこりと笑った。

「おかえりなさいじゃない」

「ね、もっとチューして? ね?」

「ね? じゃない。酔いすぎ」

酔いすぎ? と首を傾げる。ああ、そうかお酒を大量に飲んだのだった。

「酔ってないよ。私強いもの。大丈夫だから、エッチしよ? ね?」

なかなかキスしてくれない航さんに焦らされて、航さんの首に腕を回し自分から頑張ってチュッチュと唇をくっつけた。

「お前、何言ってるか分かってないだろ」

「分かってるよ。エッチしよって言ってる」

ムッとして言い返すと、航さんは呆れたような目をする。

「お前、もう飲むなよ絶対。いや、今日は俺が悪かったんだけど……」

「悪くないよ。航さんが身を削って背負い続けてるものを、私も守りたいと思っただけ」

すると航さんはキョトンとした。そして吹き出して笑う。

「酔ってんのにかっこいいな、凛は」

「ほんと? じゃあエッチする?」

「しねーよ。なんなんだ、この酔っ払いは」

ため息をつきながら航さんは私の髪を撫でる。

「だって……。昨日、したいって思ってくれたのが嬉しかったから……」

そう言うと、なぜか急に感情が昂って、涙が出てきてしまった。

(あれ、やっぱり私酔ってるのかな?)

航さんは私の涙を見て固まった。

「今朝も、もう一回する? って。じゃあ今夜ねって。航さん言ってたから……」

言葉も涙も止まらなくて困った。しゃくり上げて泣いていると、航さんは頭を抑えてタジタジな顔をする。

「泣くなよ。分かったから」と航さんが私の目元にキスをして涙を拭ってくれる。

「ごめんなさい。今日は航さんしてくれないのかなって思ったら寂しくて」

航さんは呆れ顔で、でもちょっと頬を赤くしているように見えた。

「お前酔っ払うとなんでも口に出すんだな。そんなに抱かれたいのか」

「うん。沢山してほし……」

また涙が出てきて今度は言葉が詰まる。

私は何を言ってるんだろう。

ダメだ、かなり酔ってるなと自覚したところで、航さんが急にワイシャツを脱いだ。

「分かった。沢山してやるから、記憶無くすなよ」

一瞬で服を脱がされると、航さんの固い胸板が私の体にぴったりとくっついて、とろけそうなキスをされた。

航さんの息が荒い。それが嬉しくて、キスも航さんの指先も気持ち良くて意識が飛びそうだった。

「お前、もう絶対飲むなよ。俺の身が保たない」

耳を舐められながら囁かれて、お腹の奥がジンジンした。酔いの熱さで身体中が痺れてしまいそうだった。



(あああああ。やってしまった。)

もう今日何度そう思ってはため息をついたことか。

断片的に覚えている昨夜のこと。しつこく誘う私。呆れたような航さんの顔。

酔いに任せて航さんを困らせてしまった。ああああああ。

荒れる内心とは裏腹に、大根と人参を鬼の速さで千切りにし、蓮根を輪切りにして酢水に晒す。

アジはなめろうにする為に細かく叩く。ネギは五本みじん切りに。

料理は元々好きだし、余計なことを考えないで済むから良かった。

でも今日ばかりは昨日の記憶が断片的に再生されては心の中で絶叫し、包丁を握る手をひたすらに動かすことでどうにか平常心を保った。

「こら、動くな。ちょっと待て」とトロンとした目でキツそうに耐えながら、膝に乗せた私の腰を抑える航さん。「だって、止まらないよ」と答える私。

(あああああ。死にたい。)

今朝私が部屋を出る時、航さんはまだ眠っていた。朝から忙しかったようで、朝食を取る暇なく仕事部屋でパソコンをチェックし、そのまま玲奈さんを送っていってしまったのでまだ顔を合わせていない。

このまま航さんの記憶が薄れるまで会わずにいられないものか。

いや、航さんとそんなに長い期間会えないなんて、私が耐えられそうにない。

もうすっかり航さんに絆されていた。航さんがいないと、私は……。

「一度寝ると、女は面倒になるんだよな」

大学生の頃、航さんと同レベルのイケメンな先輩が言っていた言葉だ。

モテにモテ、いろんな女の子と付き合っていたけれど、自分を好きにならない私にはよくそんな愚痴をこぼしていたことを思い出した。

「寝るまでは楽しいし、相手のことちゃんと好きなんだよ。でも、寝たらみんな怖くなる。私のことどのくらい好きなの? 私と男友達どっちが大事なの? 女の子といたんじゃないの? あの子はあなたにとってなに? もっと一緒にいてくれなきゃ嫌だ。って」

先輩も大概酷い男だったけれど、一理あるとも思った。

体の関係になると、女はドロドロ重くなる。

抱いて欲しいとせがむ私を見る航さんの昨日の呆れた顔が浮かんできて、ネギを刻んでいた手が止まった。

「凛。 あれ? 女将は?」

急にした声に驚いて包丁がまな板の上で暴れた。

まだ4時だった。私は顔を引き攣らせ、お台所に入ってきた航さんの顔を見られず目を逸らしながら振り返る。

「航さん……早いね……。女将さんは今休憩でお部屋にいると思うけど……」

「なんだ、赤い顔して。まだ酔ってんのか?」

と航さんが私の頬に触れた。

「あの、昨日は……その。ごめんなさい」

すると航さんは吹き出して笑った。

「覚えてんの?」

「断片的には……」

ぶっと航さんはまた笑い、私の手を引くと抱きしめてくれた。

「航さん、スーツ! ネギ臭くなるよ」

「お前が酔うとあんなに素直に可愛くなるなんて知らなかったな」

「可愛く? 肉食獣になるの間違いじゃない?」

手についたネギがスーツに触れないよう必死で腕を浮かして言った。

「肉食獣? どこが。めちゃくちゃ懐いてくる猫って感じ」

「猫も肉食ですが……」

「体キツくないか? 途中からあんまり加減できなかったから……」

そう言いながら航さんは、もう顔が熱くて真っ赤になっているであろう私にキスをする。

私がネギの手を動かせないのをいいことに、仕事中だというのに好き放題チュッチュとする。

「もう! 航さんは女将さんに用事なんじゃないの?」

「ああ、そうだった。手をネギだらけにして赤くなってる凛を見てたら色々飛んだ」

……スーツにつけてやれば良かったか。

「ちょっと女将と話があって帰ってきた。また事務所に戻らないとだけど」

「そうなんだ。休養日のことじゃなくて?」

「ああ、その話はもう昨日してある。あと一ヶ月もしたら凛に一日任せられるだろうってさ。その時また細かいことは三人で話して決めよう」

分かりました、と返事をしながら私は手を洗った。

じゃあ、なんの話なんだろう。今日は忙しそうなのに、わざわざ仕事途中に戻ってくるなんて。

「お前は何も心配するな。じゃあな」

そう言うと、航さんは私のおでこにキスをして行ってしまった。

(……何も心配するな?)

[side航]

台所を出ると、頭を抱えてため息をついた。

凛は困った存在だった。

なんなんだ、昨日の可愛さは。

俺のために、飲みたくもない酒を懸命に飲んで。自分には関係のない男からのセクハラを懸命に受け流し。

あげく酔って、抱いて欲しいと泣きながら何度も訴えて。

なんなんだ、ほんと。

そんなに必死にならずとも抱くに決まっているのに。

昨日は朝からそのことばかり考えていた。初めて抱いた次の日だけれど、また抱きたい。

そんな高校生みたいな情熱をどうしたものか。

凛は他人の為なら容赦なく声を上げるのに、自分への不利益には疎い。俺からの要求はなんでも受け入れてくれるから本心が全く分からない。

俺がそうさせてしまっている。

主従関係にあって、しかも居候までさせている身だ。そんな俺に迫られ、凛に拒否権はあるか?

ないだろう。

俺はこの状況につけ込んでいるか? なんて自問自答、今更だ。凛が拒否できないことを分かった上で、今までも強要してきたのではないか?

(ゲスなことをしないとやっていけないのは二流。って。どの口が言えた。)

それでも凛を、手放す気はない。たとえ今後嫌われてしまおうとも。

だからこそ、昨日の必死に求める凛は可愛すぎて、歯止めが効かなかった。

もう凛に酒は絶対に飲ませない。他の男にも触らせない。

けれどストーカー男も組合長も富山たちも簡単に触りやがって……

「航。あんたさっきからそこで何やってんの」

女将の部屋の前でブツブツ言っていると扉が開いた。

「いや、考え事を……」

「あんたその考え込むとブツブツ言うクセ直しなさいよ。凛ちゃんに見られたら嫌われるわよ」

「別に嫌われようとも……。いや違う、組合長の件で話がある」

すると女将は腕を組んだ。

「……昨日の帰り際の娘さんの話?」

「ああ」

「入りなさい。こんなところでする話じゃないでしょう」

女将は祖母の顔から女将の顔になった。厳しくも熱い男だった祖父の妻として会社を支えていた頃の、あの顔だ。

[side凛]

その夜、航さんは私を抱かなかった。

航さんが帰って来た時には夜中の1時を回っていて、私は何とか起き上がってベッドの上でウトウトしながら航さんがお風呂から出てくるのを待った。

「起こして悪い。明日も早いのにな。もう寝ろ」

と言って、航さんは私のベッドに入るとギュッと抱きしめてくれた。

航さんの甘い香りがして、お風呂上がりのホカホカした体温に安心して、今日も何かあるのかな? と気が気ではなかったのが嘘のように眠けがまさった。

「女将さんとは……話せた?」

私は無意識に目を擦りながら、夕方から気になっていたことを訊いた。

「ああ。ちゃんと話したから大丈夫」

「そう……」

5時ごろ休憩から戻ってきた女将さんは、少し気難しい顔をしていた。

「航さんがお部屋に行きましたか?」

眉間に皺を寄せた女将さんは、私と目が合うと和やかな表情に戻り前掛けをキュッと結んだ。

「来たわよ」

「そう……ですか」

「凛ちゃんはなにも心配しないで大丈夫よ」

またそのセリフだった。

なにか私が心配しそうな話がなされたのだろうけれど。二人とも具体的には教えてくれそうにない。

ベッドで頭をゆっくりと撫でてくれる航さんのシャツにしがみついて私は目を閉じた。

「夜ご飯、ちゃんと食べた?」

うつらうつらとしながら訊いた。

「ああ。凛が作った唐揚げさっき食べてきた。美味かった。また作って」

「うん」

「そうだ。凛、欲しいものあるか? 明日は仕事で市内まで行くから。なんでも言え」

明日も航さんは忙しくするのかと思うと、そこはかとない不安が押し寄せる。航さんの体が心配で仕方がない。

「私は航さんの休みが欲しい」

「休み?」

「うん。航さんずっと休んでないから。ゆっくり休んで欲しい。そうじゃないと怖い」

眠気に思考の輪郭を支配されながらも必死にそう言った。

航さんは私の背中をギュッとしてクスクスと笑った。

「分かった分かった。今週末に地域の祭があるから。それが終わったら休める」

「ほんとうに?」

「土曜が祭だから、日曜はちゃんと休む。どこか行きたいところは?」

「私の相手なんてしなくていい。ゆっくりして疲れをとって欲しい。せっかくの休みなんだから」

「じゃあ、凛も休めよ。玲奈のメイクの練習に付き合ったり、家事手伝ったりしないで。この部屋でのんびり過ごそうな」

私は航さんの胸でコクンと頷いた。

良かった。まだ五日もあるけれど、ようやくゆっくり休んでもらえそうで安心した。

「どんなに忙しくてもお前と一緒に眠ったら疲れなんてとれるけどな」

「え?」

航さんが呟くように言うので、なんて言ったのかよく聞き取れなかった。

「なんでもない」

そう言って航さんは私の頬を撫でると顎を持ち上げ、キスをしてくれた。

優しい長いキスでゆっくりと酸欠になって、眠気も混ざりそのまま意識を飛ばすようにして私は眠ってしまった。



次の日のことだった。

航さんは玲奈さんを送った足でそのまま市内へ営業に行き、女将さんが買い物に出ている時だった。私はお台所で独りスナップエンドウの筋を取っていた。

「ごめんください」

玄関から呼ぶ声が聞こえた。来客? と慌てて手を洗い玄関へ急いだ。

「すみません、今家の者は全員出かけておりまして……」

廊下を小走りしながら、玄関に控える女性の姿が見えると同時にそう言った。若い女性で驚いた。訊ねてくるとしたら女将さんのお友達のおば様か漁港関係のおじさんばかりだから。

「……どちら様?」

私も同じことを思ったけれど、先に訊いたのはあちらだった。

「えっと……こちらで賄をしています倉木と申します」

私がそう言うと、彼女は怪訝な顔を急にパッと明るくさせた。

「ああ、あなたが家政婦さんなのね」

家政婦という言い方に、脂臭いポマードの香が蘇る。嫌な予感しかしない。

「初めまして。私、柏崎綾乃(かしわざきあやの)と申します。航さんがいつもお世話になっています」

大きな花柄のタイトなワンピースを着た彼女は、ハンドバッグをちょこんと持った手を胸の下で組み、小さく頭を下げた。

「いえ……こちらこそ……」

そう答えるのがやっとだった。

「私、航さんとは結婚のお約束をしているんです。どうぞ、お見知りおきを」

彼女はそう言って真っ赤に塗った唇の両端をキュッと上げた。
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