Runaway Love
 目の前の先輩は、悪びれる事もなく、あたしに言った。
「え、あの、あたし、まだ仕事が……」
「何?もう六時だけど、定時過ぎてない?残業するワケ?」
「――そういう訳では……」
 でも、仕事の片付けは終わっていないのだ。
 あたしが言いよどんだのを、見逃さず、先輩は畳み掛けるように続けた。
「せっかく再会したんだからさ、話聞かせてよ。ああ、奈津美ちゃんも呼んで。別に旦那さんも一緒で構わないし」

 ――結局、あたしは見えてないんだな、この人は――……。

 ”奈津美の姉”

 あのコに近づく為に、あたしに近づいてくる男なんて、昔から――それこそ、星の数ほどだった。
 その中でも、先輩はタチの悪い方で――……それは、今でも変わらないのだと思うと、無性に腹立たしくなる。

「君、忙しいなら、途中で抜けてもらっても良いから、どうかな?」

 胸の奥の棘が、どんどん埋め込まれていくような感覚。
 十年以上も刺さり続け、抜ける事なんてなかったそれは、更に凶器のように、あたしを傷つけていくんだ。

 黙り込んだあたしを、先輩はいぶかしそうにのぞき込む。
「何、迷ってるの?どうせ、予定無いんでしょ。彼氏がいるようには見えないしさ」


「――彼氏なら、ここにいますが」


 あたしは、瞬間、顔を上げた。

 パーティションの向こう側から現れた野口くんは、大股であたし達の元にやって来る。
「――申し訳ありませんが、終業時間を過ぎています。ご用件はお済みのようなので、杉崎はこれで失礼させていただきます」
「の、野口くん」
 あたしの腕を取り立ち上がらせると、野口くんは、ぼう然としている先輩を見下ろして、そう言った。
「――え、彼氏?」
 ソファから立ち上がった先輩は、我に返ったのか、引きつりながら、踵を返そうとする野口くんに尋ねる。
「そうですが」
 振り返り、淡々と返す野口くんの、眼鏡の奥の視線は鋭くて。
 元々切れ長なので、本気でにらむと、怖くなるのかもしれない。
 そんな事を思ってしまうくらい、自分の状況が、まるで他人事(ひとごと)のように思えてしまう。
「も、物好きだね。言っちゃ悪いけど、彼女、真面目すぎて面白くないよ。融通も利かないしさ。妹さんは、明るくて人懐っこい、可愛い美人なのに。どうして、こうも、差が出ちゃったんだろうね?」
 まるで、負け惜しみのように、まくし立てる言葉に、あたしは無意識に視線を下げてしまう。

 ――ああ、いつだって、同じ言葉。

 浮かびそうになる涙は、唇を噛みしめてこらえる。
 言わせておけばいい。
 そう思えたら、どんなに良いか。

「茉奈さんは――「――じゃあ、俺も物好きの一人ですかね、山本さん」

 そう、野口くんの言葉を遮ったのは――早川だった。
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