Runaway Love
 そのまま静かな空間で、昼食を終え、あたしは立ち上がる。
「茉奈さん?」
「ごちそうさま。――洗い物くらい、するわよ」
「え、いいですよ!」
「借りを増やしたくないし」
「借りって……」
 あたしの返事に、岡くんは困ったように微笑む。
「……じゃあ、一緒にやりましょうか」
「――え」
 言うが遅い、彼はあたしの隣に来て、スポンジを手に取った。
「オレが洗いますから、茉奈さん、拭いてください」
「――わ、わかったわ」
 一瞬、この前の野口くんとのやり取りを思い出し、少しだけ気分が沈みそうになるが、どうにか振り切る。
 今、目の前にいるのは、岡くんなんだから。
 十分もしないうちに終わり、彼は手を拭くと、大きく伸びをする。
「……疲れてるんじゃないの?」
「いえ、疲れなんて、吹っ飛びました」
「は?」
 あたしは、その返事に眉を寄せる。
 すると、岡くんは、あたしの耳元に顔を寄せる。

「――茉奈さんと一緒にキッチンに立つなんて、夫婦みたいで――興奮しちゃいます」

 そう言うと、体勢を起こし、離れた。
 あたしは、耳を押さえながら、彼をにらみ付ける。
「……言い方っ……!」
 何だか、いやらしい言い方に聞こえたのは、気のせいか。
 岡くんは、平然と笑う。
「茉奈さん、顔、赤いですね」
「……知らないわよっ!」
 あたしは、顔を背けると、再び図書館の本を持ち、先程の場所に座り込む。
「コーヒー、淹れますね」
 クスクスと笑いながら、彼はそう言ったのだった。


 次に意識が引き戻されたのは、もう、夕方間近の辺りだ。
 本を閉じ、余韻に浸りながら顔を上げると、机に向かって何かを書いている岡くんの背中が視界に入る。
 あたしは、そっと立ち上がると、彼の後ろから、手元をのぞき込もうとするが、その真剣な表情に思いとどまった。

 ――……あたしより、集中してるんじゃない。

「あっ、す、すみません!」

 すると、岡くんは、気配に気がついたのか、顔を上げてあたしを振り返った。
「良いわよ、邪魔する気は無いから」
「でも」
「――まあ、コーヒーくらいなら、淹れるわよ?」
「え」
 彼は、目を丸くすると、一瞬遅れて、うれしそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
「え、あ、ええ」
 岡くんは、すぐに作業を続ける。
 チラリと見えた紙には、設計図のようなもの。
 これを書いていたのか。
 よくわからないけれど、課題か何かだろう。
 ――でも、あんな表情(カオ)もできるのね。
 真剣に何かに打ち込む姿は、誰であろうと好ましいものだ。
 そんな事を思いながら、あたしは、キッチンに行くと、棚に置いてあったコーヒーメーカーをのぞき込む。
 ――あ、コレ、あたし、わかんないヤツだ。
 レトロとも思えるそれは、喫茶店で使われているようなイメージのもの。
 会社のヤツは、既にコーヒーがセットされてる機械なのだ。
 でも、淹れるって言った以上は……。
「オレがやりますよ」
 そう、頭を悩ませていると、後ろから声がかかった。
 あたしは、振り返ると、眉を下げる。
「ごめんなさい。こういうの、触った事無いから……」
「いいですよ。コツもあるんで」
 言いながら、岡くんはそばに置いてあったコーヒーフィルターの袋を手に取る。
 そして、微笑みながら、あたしを見た。

「お姫様は、そっちで待っててください」

「……なっ……!!?」

 ――お姫様ってっ……!!!

 今まで言われた事の無い単語の衝撃が大きすぎて、あたしは、目を剥いて固まってしまう。
 岡くんは、クスクスと笑いながら続ける。
「今日は、至れり尽くせり、なんですから」
「……バカ……」
 それだけ言うと、せめてもの抵抗に、彼を見上げてにらむ。
 真っ赤になっている顔は、もう、隠しようがないので、そのままだ。
 そして、あたしは、言われた通り、テーブルのそばに戻って座った。

「……茉奈さん、ズルい」

 何だか、あたしよりも顔が赤い気がする岡くんは、そうつぶやき、うつむきながらコーヒーを淹れ始めた。
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