憧れと結婚〜田舎令嬢エマの幸福な事情〜

23、嵐の後で

「足は痛みませんか? 遠慮せず、正直に言って下さい」

「大丈夫です。ありがとうございます」

「士官学校時代、嫌になるくらい詰まった樽を運ばされた。あなたを背負うくらい、本当に訳ないのだから」

 佐官に立身した今も、剣の鍛錬を欠かせないとも聞いた。触れた腕の逞しさを感じる。エマは少し気恥ずかしくなり、顔を背けた。

 少し沈黙が続いた。月明かりの下を歩く。涼しい夜気が心地いい。

「お聞きにならないのですね、オリヴィアの言っていたことが何なのか……」

「気にならないと言えば嘘ですよ。だが、わたしだって前妻に逃げられた過去がある。人は何がしかあるものだから」

「リュークさんはお悪くないわ」

「あなただって悪くはないでしょう」

「オリヴィアは嫌な言い方をしたけれど、あながち誇張でもないのです。……ある方に思いを寄せて、優しくされて、勘違いしていたのは事実です。みっともないわ…」

 苦い思いだった。エマは唇を噛んだ。

「その男性とは?」

「それきりです。何もおっしゃらずに」

「たった、それだけですか?」

「ええ…」

 小さく彼が笑った。見れば、夜目にも頬が緩んでいる。おかしがっているのが知れた。

(何が面白いの?)

 田舎娘の勘違いぶりが哀れで滑稽なのかも。エマは不快で、預けた腕を外そうとした。

 瞬時に、リュークの手が彼女の腕を押さえた。

「失礼、笑ってはいけなかった。申し訳ありません。ただ……」

「ただ、何です?」

「他愛のないことなのに、まるで罪かのように深刻そうにしている。無垢なあなたが可愛らしかったから」

 エマは呆気に取られ、少し唇が開いた。そこから吐息がもれる。

「…からかっては嫌ですわ」

「事実ですよ。罪なのは純情なその心を弄んだ男の方だ。あなたはちっとも悪くない。花が甘やかで美しければ、蝶は留まりたくなるものでしょう。しかし、花は別でも咲いている」

 レオは彼女に対して何の約束の言葉もなかった。そのありようは、まさに移ろい易い蝶の心と同じだと、腑に落ちた。

 何かのきっかけで、彼女に冷めた。レオがひっそりと行った試験に落ちたのだろう。

 認めたくない思いが、胸に引っかき傷をつくる。それが今もしみる。

(でも、ちゃんと認めないと)

「しかし、男が皆、そうであると思わないで下さい」

「リュークさんもあちらこちらで美しい花を眺めるでしょう?」

「誤解しないでほしいな。一人に決めたら、他に目は向けませんよ」

「その女性はお幸せね」

 とても開放的ではあるが、二人きりの空間だ。ふと、エマは緊張するのを感じた。彼の側の頬が熱い。視線を感じるからだ。

 ベルの声もよみがえる。

「もう網に引っかかっているの。後は簡単よ。そっと網をから外して、袋に入れるだけ」。

 この人に寄り添えたら、心は楽だと思う。母も姉も安心させてあげられる。のち、おそらく自分も幸せを感じて行くのだろう。

 そうしたいか、と問われれば、頷けない。

 そうすべきだと、強く推されれば、心はいつしかそちらへなびいていくようにも思う。

 うろうろといつまでも同じ問いを繰り返す。そのうち、歩が遅れた。

「どうしました?」

「え、あの……」

「足が痛むのでは?」

 屈んだ彼が、彼女の足元を見ている。

「失礼」

 と、手を触れた足首に、びりっとした痛みが走った。

「ひどく擦りむいています。これ以上歩くのは無理ですよ」

 そう言い、彼女へ背を向けた。

 指摘されて傷を意識してから、痛みが増すように感じた。歩くのはきっと耐え難い。エマは戸惑いながらも彼の背に身を預けた。

「エヴィと変わらない」

「まさか。その三倍はあるわ。ごめんなさい」

「いや、樽よりずっと軽い。あの訓練はこのためにあったのかな」

「嫌だ。おかしなリュークさん」

 館まで深刻な会話にはならなかった。

 着くと、メイドの声に母が驚いて出迎えた。足を引き摺りながら居間に入る。

 居間にはバート氏も子供たちもいて、のどかな雰囲気だった。お茶やワインを飲み、ゲームを楽しんでいたところのようだった。

 エマを下ろした後もリュークはけろりとしていた。母の勧めたワインを旨そうに口に運ぶ。

「エマがご迷惑をおかけしましたわ」

「いえ、迷惑ではありませんよ。足を痛めたエマさんのお陰で、舞踏会を抜け出すいい理由になった」

 リュークは母にダンスの場でオリヴィアにいじめられたことを明かさないでくれた。母が知れば、きっと心を痛める。その彼を見て、彼女の心が温かくなった。


 エヴィが欠伸をし始めたのを潮に、三人はウェリントン領地へ帰って行った。

 ダイアナが馬車で帰ったのは、それからほどなくだ。

 妹に続き早々と帰宅したダイアナに、母は流石に呆れる。

「せっかくの舞踏会なのに、こんなに早くに帰って来てはもったいないじゃない。まだこれからではないの?」

 時計はまだ九時にもならない。ダイアナは首を振り、

「いいの。約束の人とは踊ったから。人が多くて少し疲れたわ」

 男性陣が抜け、エマは膝を抱えて座っていた。ダイアナが足首の湿布の当った箇所を見て聞いた。

「痛むのではない?」

「単なる靴擦れよ」

 母がバスを使うと部屋を出た。それではもう寝室に入り、階下には降りて来ない。

 すぐに姉がエマの隣に掛けた。ショールを丁寧に身体から外しゆっくりと畳む。何にでも丁寧なたちではあるが、品への愛着が伝わる。

 二人きりではあるが、ダイアナは声をひそめた。

「大丈夫? 落ち着いた?」

 舞踏会でのオリヴィアの仕打ちのことを聞いている。近くに姉はいなかったはずだった。それでも知っているのは、誰かに聞いたからだ。エマの振る舞いは場の耳目を集めたに違いない。

「ええ、大丈夫。それで早くに切り上げて来てくれたの?」

「それはそうよ。心配だもの。でも少し疲れたのも本当よ。大丈夫、たっぷりと踊ったわ。キースとね」

 彼の張り付くような視線を感じつつでは、会も楽しめないだろう。

「ベルから聞いたの。あなたがダンスの列から抜けてすぐ、リュークさんが追いかけて行かれたそうね」

 そんなにすぐ後を追ってくれたのか、とちょっと気持ちがしんとなった。

「残されたあなたのパートナーのキースと、リュークさんのパートナーのオリヴィアが、仕方なく兄妹で踊っていたらしいわ」

 顔を見合わせて二人で笑った。

「キースには申し訳なかったわ。あの人は悪くないもの」

「抜け出すのは当然よ。ひどい言われようだったって……。なぜ、あんな場所で周囲に聞こえるような声を出すのかしら? 人を貶めるために。意味がわからないわ」

 ダイアナは首を振る。

「結局恥をかいたのは彼女なのに。やはり皆、眉をひそめていたようよ。知事邸での遠慮があって、口にこそしないけれど。それでも、本人はどこ吹く風なの。キースも何の注意もしないし、信じられないわ」

「リュークさんも言っていらしたわ、自分で気づかなければ懲りないって」

「男らしい方ね、リュークさん。あなたを背負ってここまで連れて来て下さったのでしょう?」

「ええ」

 エマは瞳を下げ、ダイアナの視線を避けた。目が合った途端、羞恥で頬が熱くなりそうだったからだ。

「何か、お話があって?」

 ダイアナが指すのは、彼からの思いの告白や求婚だ。

 エマは首を振る。

「何も。リュークさんは、別にそういうお気持ちはないのではない? 紳士としてのただのご親切よ」

「そう思うの?」

 更に問われれば、返事に詰まる。彼女への別種な優しさは感じる。見つめる瞳にも意味があるようにも取れる。

(でも、それはレオと同じ。彼もそうだった)

「もう、間違えたくはないの。勝手に思い込んで、勘違いして……。傷つきたくないわ」

 言い終えてはっとした。

 今、気づく。

 気を許した姉の前では、レオとの失恋を口にしていつも涙ぐんでいた。苦い思いはある。なのに、涙は浮かばない。

(いつから?)

 あの涙は、きっと悲しさと一緒に自分を憐れんでいたのだろうと思う。彼に捨てられた惨めな自分。可哀想な自分……。

 そうやっていれば、恋を引きずったままでいられるからだ。前を見ずに、後ろ向気のままで楽だったから。

 知らず、自分が前を向き始めていることのサインなのでは、と思った。時間や姉の励まし、そしてリュークの存在もあるだろう。

(レオを忘れかけている?)

 もちろん、存在は覚えている。恋のときめきも鮮烈だ。けれど、失恋に折り合いがついたのではないか。彼への執着が消えたのも感じる。

 彼女だけがつかんで離せなかった彼の影の一部を、手放したように。

「ダイアナは、レオの消えた理由には訳があるはずだから、待ってもいいのじゃないかと言ってくれたわね。それは、今も同じ?」

「そうね。意見は変わらないわ。不可思議なところはあるもの。あなたの気持ちがそれに沿えば、待つべきだと思うわ。けれど、レオはもう現れないかもしれない。会えても、もっとずっと後になるのかも。その時、彼があなたと同じだけ身軽とは保証できないわね」

 ダイアナが示すのは、エマが乙女を貫き待っていても、彼が妻帯している可能性もあるということだ。何の約束もなかったのだから、彼を恨んでも憎んでも自分に返って来るだけだろう。

「リュークさんは、あなたの気持ちを探っているのではない? ご自分の過去を気になさってもいそうだわ」

「ご自分でもおっしゃっていたわ。前の奥様に「逃げられた」だなんて」

「ねえ、エマ。あなたの気持ちはどう? このままでは恋につながりそう?」

「え」

 問題の本質だ。レオとの過去やそれへの思いは側面だ。単純に、今の彼女がリュークを好きかどうか。その兆しがあるか、ないか。

 正直に自分の心を眺めてみる。オリヴィアへの反感。その後を救ってくれた彼へは感謝があふれている。今夜の彼は頼もしかった。存在が嬉しかった。

「まだそんな……」

 頬に両手を当てる。

(わからない。でも……)

 こんな今を重ねた向こうに、彼への恋があるようにも思う。

「いきなり降るような恋ばかりじゃないわ。自分で育てていく思いもあっていいのじゃない?」

 ダイアナの言葉は胸に沁みた。ひどく重みもある。

(同じように、自分もハミルトンさんへの恋を育てたのかしら)

 心が穏やかだった。

 失恋を嘲笑され傷ついた。舞踏会を逃げ出して恥もかいた。なのに、どうしてだろう。

(いい一日だった)

 そう思えた。
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