憧れと結婚〜田舎令嬢エマの幸福な事情〜

24、白

 エマはリュークと過ごす時間が増えた。

 二人きりの時もあれば、アシェルとエヴィが一緒の時もある。ダイアナは努めてその場を避けているようだった。

 気遣いが恥ずかしいが、姉に不平は言えない。心に必要な時間だと思うからだ。

 彼の何を探るつもりもなかった。見つめるべきは、自分の感情や反応だ。

 子供たちも連れ、ピクニックもした。リュークはナイフで果実を剥くのとても巧い。陽に当たるとすぐに寝転ぶ癖がある。

「蛇だ」

 草むらでアシェルが見つけた。エヴィは悲鳴を上げ、エマも気味の悪さに自分を抱きしめた。リュークは棒切れで胴をふわっと捕らえて、あちらへ放り、

「食べる国もあると聞きますよ」

 と笑った。

 そんな時間は穏やかに流れ、エマも微笑んでいることが多い。手を取られることもある。少しだけ、指先が結ぶこともあった。

 決して不快ではない。戸惑いと恥じらいが同じほどで混ざり合う。 

 彼のウェリントン領地での滞在も、一月を超えた。そろそろ休暇が終わるという。

「艦隊式の準備に入ります。海軍を挙げてのもので怠れない。王室のご臨席もあり、派手で見ものですよ」

 話を聞くエマは目をぱちぱちさせるばかりだ。

 そして、

(そうか。もう終わりなのね)

 と、日々の果てを感じた。

「ご立派でしょうね」

「寝転んでばかりだと思うでしょうが、敬礼のまま屹立している時もあるのです」

「…いつ、立たれるのですか?」

「五日後に」

 思いの外早く、驚きに瞳が落ちた。

「そういう顔をされると、期待したくなる」

「え」

 彼女が顔を上げると、見つめる彼の目に会う。視線が長く重なったままでいた。

 鼓動が速くなるのが自分でもわかった。

 眠る前のひと時、午後の瞬間が彼女の胸をよぎった。リュークと見つめあった刹那、胸が鳴った。あの心の昂りはもう恋なのでは、と思う。

(どうかしら?)

 異性とそうしていれば、女性の普通の反応のようでもある。

 じき、彼は休暇を終えると告げた。たった五日ののちにはこちらにはもういない。娘のエヴィがいるのだから、また来るだろう。しかしそれはいつかは知れなかった。

 それを自分はどう思うか。

(寂しく思う? 切ないかしら?)

 多分きっと、日々を物足りなく思うだろう。ゆらりと長い影が自分の隣に差さないことは、寂しいに違いない。華やいだ催しの後の気分にきっと似ている。

 けれど、泣くことはないとわかる。

 ふと指を噛んでいた。


 メイドが盆に置いた手紙の束を手に取った。

 母に渡すつもりで何気なく眺めると、一通見覚えのあるものが交じっているのに気づく。彼女宛の葉書だった。

 宛名のみで裏面は何も書かれていない。その宛名も女性らしい筆跡だ。エマはそれを手に寝室へ急いだ。手紙をしまう小箱を取り出し、中から以前届いた葉書を見つけた。

 二つを並べてみる。同じく女性の字だが、筆跡が違う。別人が書いたとわかる。

(どういうこと?)

 考えるまでもなく、彼女には他所に知人はいない。だから姉以外から手紙が届くことがない。

 しかし、彼女の住まいと名を知っている誰かが、送っているのは確かだ。

 変に胸が騒いだ。考えもまとまらない。

 そこへノックの音だ。やや上の空で返事を返す。ドアが開き、メイドが顔を見せた。

「エマお嬢様。お客様です」

「ああ、そうね。ありがとう。すぐ下りるわ」

 リュークが訪れたのだ。お茶の時間までを二人で過ごすのは、もう日課のようになっていた。

 ボンネットを手に部屋を出た。廊下の鏡の前で頭に載せる。

 玄関の前で待つリュークに挨拶をし、連れ立って外へ出た。

 通い慣れた梢の道を歩く。ロバを連れた誰かとすれ違った。

「明日の朝、こちらを立ちます」

「…そうですか。馬で行かれるのですか?」

「ええ。その方が早い。途中、姉の家に寄る約束になっているので、メイベルの街を通ります」

「エヴィの様子はどうですか? 泣いたりしていません?」

「わたしの事情をわかっているのかな。わかりがいいですよ。今度はもっと大きな人形を買ってきて欲しいとねだられた」

 幼心にもどうにもならないことは理解出来る。駄々をこねる意味のなさも知っている。周囲を困らせるばかりだ。賢さは観念なのだと、エマは切なく思った。

 僧院の裏庭に来た。手入れのされた野草園が広がっていた。池から出たアヒルがこんなところにまでやって来ている。

「次は、いつこちらにいらっしゃいます?」

「半年は先でしょう。艦隊式の後で、すぐに航海です。北の島々を目指して巡り、反対周りに航海を続けて帰還します」

「長い任務ですのね」

「それが我々の仕事ですから。海に囲まれた妙な暮らしですが、あれはあれで面白い」

 その声に倦んだ色はなかった。大海原を行く航海は躍動感のある任務に違いない。快活な彼には海軍での冒険的な生活は性に合うのだろう。

「エヴィをよろしく頼みます。もうすっかりこちらの生活に馴染んで幸せそうだ。街ではよく咳をしていたと聞いたのに」

「ご安心なさって。毎日様子を見ますから」

「ありがとう」

「…寂しくなります。姉もじきホープ州へ戻りますし……」

 リュークはそこで足を止めた。目の前に下生えのなだらかな坂が続いている。

 ふと、沈黙に緊張した。これが最後の二人きりの時間だからだ。明日彼は別の遠い場所にいて、すれ違うこともない。

「軍人の妻になることを、あなたは今はどう思いますか?」

「それは……」

 以前、似たような質問を受けた。その時彼女は「わからない」と返した。

 それから少し時を置き、今はどうか。

 ベルがリュークを強く勧める意図も納得出来た。この素敵な彼を逃せば、のち出会いなどないかもしれない。

 まだ恋とは言えなくても、寄り添っていけばおそらく自分は彼を愛するようになる。

(選ばなくてはいけないのは、間違わないこと。周囲の祝福を受け、自分を不幸にしないこと)

 二人の歩が止まった。

 彼女の表情をうかがうように、やや鋭く彼が見つめている。

「わたしの妻になってもらえませんか? 最後に、これを聞いてから立ちたかった」

 はっきりとした言葉での求婚だった。聞き違えようがない。

 簡単な問いだ。明るい明日を選ぶのか、そうでないか。舞踏会の夜の彼を思い返すまでもない。

(頼もしくて、素敵だった。あの優しさが嬉しかった)

「あなたが帰りを待っていてくれると思うと、とても嬉しい」

 彼女は目を閉じた。

 深く吐息する。頷くだけ。

(そう)

 そこで、なぜかまぶたの裏に白いイメージに浮かんだ。ちょっとの後で、それが出かける間際、メイドから渡されたあの不審な葉書につながった。裏面の何も書かれていなあの白……。

 一度だけなら何かの過ちでも、二度目では誰かの必然だ。

 唐突に、あの葉書はレオからなのでは、と感じた。

 未婚の男女が手紙をやり取りすることは不適切だ。だから宛名は女性の文字で、内容もなくただ届けられた。

(あれは、彼の声)

 微かで途切れそうな、レオの囁きだ。

 途端、幾つもの思い出が心に溢れ、強く感情を揺すぶった。生々しいほどの思いの数々に、彼女は顔を覆ってしまう。

(まだ、こんなにも好き)

 知らず首を振っていた。

(レオの声を無視できない。あの葉書を破れない)

 今、リュークの求婚を受けることは、レオへの裏切りだと強く思った。

 のち、自分の選択を悔やむかもしれない。愚かだったと、利口になれなかった今を歯噛みしたくなるかもしれない。

(自分に嘘はつけない)

 こんなにも、去ったレオに縛られている自分が滑稽でもあり惨めでもある。それでも抗えない。

「ごめんなさい。お受け出来ません…」
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