婚約者に殺されかけた氷の聖女は、敵国となった追放先で幸せを掴む

柔らかな風

 欠伸をしながら階段を下りて来たロルフが、鼻をひくつかせた。

「あれっ、いい匂い……」

 キッチンから漂ってくる、パンが焼ける香ばしい匂いと、食欲をそそる美味しそうな香りに、ロルフの目が輝く。
 思わず早歩きになってキッチンを覗き込んだロルフは、アマリリスに向かって笑いかけた。

「アマリリス様、おはようございます。早いですね!」
「おはようございます、ロルフ君」

 アマリリスが、ロルフに笑みを返す。朝食の支度をしていた手を止めると、彼女はロルフに尋ねた。

「昨日、ヴィクター様から、キッチンにある食材は自由に使って構わないと聞いて、額面通りに受け取ってしまったのですが、問題なかったでしょうか……?」
「もちろんです。それどころか、こんなにちゃんとした朝ご飯が食べられるなんて、感激です!」

 キッチンのテーブルの上には、ふっくらとしたチーズ入りのオムレツとこんがりと焼けたベーコンに、サラダが添えられた皿が並んでいた。アマリリスが蓋を開けたばかりの、湯気の立つ鍋の中には、野菜がたっぷり入ったスープが覗いている。彼女がスープを三人分の椀にそれぞれ入れると、ロルフがごくりと唾を飲み込んだ。

「わあ、美味しそう。お腹空いちゃった……」
「簡単なものだけですが、よかったでしょうか」
「完璧ですよ! 普段の僕たちの朝食なんて、豆のスープと固いパンくらいだもの」

 アマリリスがオーブンから焼き上がったパンを取り出した時、ロルフの腹がぐうっと鳴った。恥ずかしそうに頭を掻いたロルフに、彼女は優しく微笑んだ。

「お待たせしました。準備ができましたから、ダイニングルームに運びますね」
「あ、じゃあ、僕も手伝います!」

 皿と椀をトレイに載せてダイニングルームに入った二人が、テーブルに皿とカトラリーを並べていると、ちょうどヴィクターが目を擦りながら部屋のドアを開けた。

「おはようございます、ヴィクター様」
「師匠、おはようございます」

 二人の明るい声に、ヴィクターはにっこりと笑みを返した。

「おはようございます。……随分と立派な朝食ですね」

 テーブルに並ぶ朝食を見て、彼は驚きに目を瞬いていた。

「これは、アマリリス様が作ってくださったのですか?」
「はい。あまり凝ったものは作れませんが、お口に合うとよいのですが」
「こんなに素敵な朝食をいただけるなんて、ありがとうございます。いただきます」

 早速目の前の皿に手を付けたヴィクターとロルフの顔が綻ぶ。

「美味しいー!」

 もぐもぐとオムレツを頬張るロルフの隣で、ヴィクターも微笑みながら頷いた。

「本当ですね。それに、この具沢山のスープも、焼き立てのパンもとても美味しいですよ」

 二人の言葉に、アマリリスの頬が微かに染まる。

「喜んでいただけたなら、嬉しいです。私には、このくらいのことしかできませんが……」
「何を言っているのですか、十分過ぎるくらいですよ。ここに留まってくださるだけでも構わないのに」
「いえ、ただお世話になるという訳にもいきませんから」

 ヴィクターとロルフが目を見合わせた。

「律儀ですね、アマリリス様は。今までは男所帯だったので、食事などは割と適当だったのですが、朝からこんなに美味しい食事をいただけるなんて、一日の始まりから充実しますね」
「師匠なんて、魔法の研究やら訓練やらで集中すると、食べることすら忘れちゃうくらいだったんですよ! でも、アマリリス様が来てくれたから、生活も前より整いそうです」

 ロルフの言葉に、ヴィクターが苦笑する。

「すみませんでしたね、ロルフ。まあ、否定はできませんが」
「ただ、師匠の魔法の腕は、本当に凄いんです! たまに厳しいこともあるけど優しいし、僕の憧れの師匠なんですよ」

 にこにことしているロルフと、優しい瞳のヴィクターを見つめて、アマリリスは胸が温まるのを感じていた。

(素敵な師弟ね。ラッセル様を思い出すわ)

 思案気に目を瞬いてから、アマリリスは尋ねた。

「ロルフ君は、ヴィクター様にどんな魔法を習っているのですか?」
「攻撃魔法も防御魔法も、幅広く教えてもらっています。火・水・風・土・光といった様々な種類の魔法に、師匠は精通しているので」
「それは素晴らしいですね」

 アマリリスは、自分を魔物から救い出してくれた時の、ヴィクターの威力の強い火魔法と、流れるような風魔法を思い出していた。軽々と使いこなしているように見えたけれど、違うタイプの魔法を次々と使うことは、かなりの高度な技術を必要とするし、消耗も激しいのだ。それなのに、長距離を移動する風魔法を使った後でさえ、ヴィクターは息一つ上げてはいなかったことに、彼女は驚いていたのだった。

「シュヴァール王国で、私の師だったラッセル様も仰っていました。ヴィクター様ほど優れた魔術師は、ほかに知らないと」
「ラッセル様こそ、とても腕の良い魔術師でしたよ。それに、何より人柄が良い。魔法は、使いこなすための技術も大事ですが、それを使う人の心の持ちようの方が、私は大切だと思っています」
「心の持ちようですか?」

 小さく首を傾げたアマリリスに、ヴィクターは頷いた。

「はい。どんなに威力の強い魔法を使えたとしても、その魔法をいかに使うかは、その使い手にかかっています。同じ魔法であっても、人を生かすことも殺すこともできますから」

 そう言って微笑んだ彼は、アマリリスを見つめると続けた。

「朝食後は、いつも魔法の稽古の時間なのですが、もしご興味があれば、アマリリス様も稽古の様子を見てみますか?」
「はい、是非お願いします」

 アマリリスの声が弾む。ロルフがヴィクターを見上げた。

「師匠、今日は風魔法の稽古でしたよね?」
「そうですね。ロルフの訓練の成果を、アマリリス様に見せてあげましょう」
「はいっ!」

 明るい表情の二人を前にして、アマリリスの口角も、無意識のうちに微かに上がっていた。

***

 三人は、石造りの屋敷から、王宮とは逆側に開けている、高い木々に囲まれた広い庭に出た。木々には所々に白い花が咲いていて、その手前には、数種類の色とりどりの花々が花壇に植えられていた。

「ここが僕たちの魔法の稽古場なんです」

 ロルフの言葉に、ヴィクターも続いた。

「この場所を囲む高い木々の周りを包むようにして、念のために防御魔法を張っているのです。万が一魔法に失敗しても、周囲に被害が及ばないように」

 アマリリスはぐるりと囲まれた木々の上方を見つめた。陽光の加減によって、淡い虹色をした、光の膜のようなものが輝いて見える。

「これもヴィクター様が? 凄いですね……」

 そう呟いたアマリリスに、ロルフが笑い掛ける。

「師匠の魔法は、まだまだこんなものじゃありませんから。……風魔法、まずは僕からいきますね」

 ロルフが胸の前で掌を上に向けて魔法を唱えると、彼の掌の上で激しい旋風が渦巻いた。周囲の遠い木々の枝が、彼の風魔法にゆさゆさと大きく揺さぶられている。

「わあっ……!」

 小柄なロルフが、見掛けによらず強力な風魔法を軽々と発動した様子に、アマリリスは思わず感嘆の声を上げた。

「上手になりましたね」

 にっこりと笑ったヴィクターに、ロルフも笑みを返した。

「ありがとうございます、師匠。前のようにはコントロールを乱さずに済みました。……この前は、明後日の方向に風が向かっちゃって、大変だったんです」

 頭を掻いたロルフに、アマリリスがしゃがんで視線を合わせる。

「凄いわ、ロルフ君。あんな強力な風魔法を、しっかりと使いこなせているなんて」

 彼は照れた様子で頬を染めると、ヴィクターを見上げた。

「まだまだ、師匠の域には届かないですけどね。師匠も、アマリリス様に風魔法を披露してくれませんか?」
「是非、お願いします」

 アマリリスが期待を込めてヴィクターを見つめる。ロルフが慌てて一言付け加えた。

「あ、でも、あんまり強過ぎるのはやめてくださいね。あの防御魔法を突き破って、屋敷が吹っ飛んだら困りますから」

 くすっと笑ったヴィクターが頷く。

「わかっていますよ。……では、この風魔法をアマリリス様に」

 彼が魔法を唱えると、彼の周りをふわりと風が舞った。風はまるで意思を持っているように、アマリリスの周りに流れてくる。

「……!?」

 気付けば、周囲の木々から、可愛らしい白い花弁がアマリリスを囲むように舞っていた。柔らかな風の中、ひらひらと踊るような花弁に包まれて、彼女の目が驚きに見開かれる。

(こんな風に、風を自由に魔法で操ることができるなんて)

 彼女がそれまで知っていたのは、型通りの、決まった呪文に対応して発動する風魔法だけだった。このような風魔法があることすら知らなかったアマリリスは、美しい夢の中にいるような気分になりながら、その目を輝かせていた。
 そんな彼女の姿を、ヴィクターは優しい表情で見つめていた。
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