眠れる海の人魚姫〜政略結婚のはずが、御曹司の一途な執着愛に絡め取られました〜
 心臓は依然として恐ろしい速さで鼓動を刻んでいる。頼むから早くシートベルトを締めてくれないだろうか、と祈るような気持ちでこくこくと頷いた。

「本当に美雨は愛らしいな」

 喉の奥を鳴らすように笑って、嶺人がシートベルトを付けてくれる。それからゆっくりと離れていく気配に安堵して、美雨はぽすんとシートにもたれた。胸元を押さえつけても拍動の音は鳴り止まない。全力疾走した後のように――美雨はもう何年もそんなことをしていないが――ドッと疲れた。

「……あの、今夜はどこへ向かうのですか」

 嶺人がクーペを走らせてしばらく経った頃。ようやく落ち着きを取り戻した美雨はやおら訊ねた。クーペは本社ビルを離れ、けれど都心からは遠ざかっていないようだった。

「ああ……少しな」

 歯切れが悪い。今はまだ言いたくないのだろうと察して、美雨はそれ以上の追及をやめた。ともあれハンドルを握るのは嶺人だから任せるだけだ。樹海に連れて行かれても文句はない。

(……でも、受付の方はデートって言ってたわ)

 デートなのだろうか、これは。
 いつしか日は完全に暮れて、窓の外を夜景が後ろに流れていく。窓に映った美雨の顔は迷子のように頼りなげだ。嶺人につけてもらったシートベルトにそっと触れる。それからポシェットの中の名刺を思う。どれを取っても彼から与えられた慈しみだった。
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