あやかし猫社長は契約花嫁を逃さない

伝わらない思いと、聞こえてしまった声

 思いがけず、一日休日ということらしい。
 食事を終えて、犬島がお茶の準備をしている間に、龍子は自分の考えを切り出した。

「私は、一度アパートに帰ります。もともと寝るために帰るだけの部屋だったので、自炊もろくにしていないし冷蔵庫に生鮮食品もないんですけど……。いつ帰れるかわからないなら、片付けでも」
「古河さんが良ければ、解約と引っ越し手続きもお手伝いしますよ」

 急須で湯呑に茶を注ぎつつ、犬島が軽く請け合った。う、と龍子は言葉に詰まる。その横で、スマホで何やらどこかにメールを送っていた猫宮が口を挟んだ。

「囲いこもうとしていると、警戒しなくて良い。もともと古河さんは引越し費用を捻出できずにあの場所に住み続けていたというが、会社的には交通費を多く支給する形になっている。一度あそこを引き払って、この屋敷を出て行くときに、どうせならもう少し会社の近場に部屋を借りればいいだろう」
「なるほど」

 なかなか断りづらいことを筋道立てて話されて、龍子は即座に反論することはできなかった。

「会社が余分な交通費を払っているって言われたら、その通りです。それに、億単位の不動産を扱いながら、自分は安普請のボロアパートというのも……。デパートの美容部員が肌荒れしていたら説得力ない、というレベルでの信頼度の問題ともいえますね」
「古河さん、デパートの化粧売り場に行くのか? そういえば化粧はほとんどしていないんじゃないか。する必要が無いのかもしれないが」
「その点は、至らずすみません。化粧は社会人の身だしなみかと思いますが、お金を貯めているのでいつも最低限でした。今後、精進します」

 これまでは、日焼け止めをかねたファンデーションと、口紅程度で乗り切ってきた。しかし、前日ちらっと見かけた秘書課の女性陣が、外見磨きにおいても並々ならぬ努力をしているであろうことは龍子にもわかった。

(さすがの犬島さんも、メイク指導はできないよね。部屋のドレッサーに化粧品が並んでいるのは見たけど、何に使うかもわからないものもあったな。勉強しないとうまく使いこなせない。頑張ろうっと)

 秘書なら秘書らしく。課題が山積みだな、と思い知る。
 その龍子の横顔をじっと見ていた猫宮が、ぼそっと言った。

「そんなに頑張らなくても。古河さんは元が良いから、大丈夫だろう」
「フォローしてくれているのかもしれませんが、努力しない言い訳を探しても仕方ないです。給料分は働きます。お化粧品も支給してくださっているみたいですから、もっときちんとします」
「まあ、ほどほどに。俺は今でも十分だと思っているから」

 ふと、静かだなと思って犬島を見ると、そーっとワゴンを押しながら食堂を出ていこうとしていた。

「あれ、犬島さん? 何か忘れ物ですか? お茶を配ってしまっても良いでしょうか。何から何まで甘えてしまってすみません」

 手伝おうとしたら断られたのでおとなしく座っていたが、手は空いているので、と龍子は席を立つ。
 ワゴンを止めて振り返った犬島は、奇妙に優しい笑顔で「良い感じでしたのでお邪魔かと」と答えた。
 特に心当たりのなかった龍子は、一言きっぱりと告げた。

「邪魔ではないですよ?」
「うん。前途はなかなか厳しい」

 犬島は笑顔のまま独り言のように呟いた。

 * * *

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