婚約者様、ごきげんよう。浮気相手との結婚を心より祝福します
 そう言って、地面に落とされた本を拾ったエレトーンの目は、アレックスを揶揄しているような感じには見えなかった。
 だから、自分のもどかしさや、このつらさから逃れる(すべ)を知っているのでは?と思ってしまった。エレトーンならどうにかしてくれるような気持ちが沸いたのだ。
 正直言って縋るような気持ちだった。

「なら、僕はどうしたら……」
「ね?」
「え?」
「そういうこと」

 なにがそういうことなのだろうか? バカにしているのだろうか?
 なにか助言が返ってくるかもと期待していただけに、ガッカリより憤りを感じた。
 怒鳴りたい気持ちを抑えて、なにがと口を開きかけたその時――
 エレトーンが小さく笑ったのだ。

「知識や経験があれば、今の状況もすぐに対処できたでしょう? 勉強って別に教科書だけが勉強じゃないの。身を守る剣術、護身術を学ぶのも勉強。こうやって本を読んで知識を得るのも勉強みたいなものよ」

 そう言ってエレトーンが見せてくれたのは、薬草学の本だった。
 アレックスはてっきり童話かなにかかと思っていたが、彼女がそこで読んでいたのは、子供が読む本ではなかった。

「毒を以て毒を制す」
「……え?」
「逃げるが勝ちなんて言葉もあるけど、それはあなたには合わない言葉だわ。バカなフリとバカでは全然違う。だから、生き残りたいなら、敵を知り敵より力をつけることよ」
「敵より……どうやって」

 家庭教師にできるところは見せられない。なぜなら、家庭教師は国王に従順だ。勉強の進み具合を逐一報告していることだろう。

(どうしたら?)

 そう思っていたら、エレトーンはフフッと笑った。

「家庭教師にはあまりできないフリして、自分で復習する。あとは独学かしらね」
「……独学」
「私だったらそうするわね」

 そう言ってアレックスに渡してきたのは、読んでいた薬草学の本だった。

「え?」
「骨くらい拾ってあげるわよ」

 口では大概なことを言われたにもかかわらず、アレックスには“頑張って”とエレトーンにトンと後押しされたような気がした。
 そんなことは知らない、自分で考えろと突き放されると思っていたアレックスは、エレトーンの言葉に身体に電気が走るような衝撃を受けた。
 逃げるだけで、戦うなんて考えたこともなかったからだ。勉強さえできなければ、目立たなければどうにか生きていけるとずっと考えていた。
 だけど、逃げていても怖いだけで終わりが見えない。いつでも戦えるようにしておくことが生きながらえることに(つな)がると、アレックスは教えてもらったのだ。
 彼女にもっと教えてほしい。
 彼女ともっと話がしたい。
 次にいつ会えるだろうか、そう聞こうと顔を上げると、エレトーンは父親が迎えに来たのか、護衛に呼ばれて行ってしまった。
 そこに残されたアレックスの心には、ぽっかり穴が空いたような空虚感が残っていた。
 たった十数分ほどの間。そのエレトーンとの短い時間が、アレックスの人生を変えたのだ。

(また会えるだろうか?)

 エレトーンが消えた場所をしばらく見ていたが、ふと手にしていた本に目線を落としペラペラとめくれば、その本は薬草だけでなく、毒についても記載されていた。

「毒を以て毒を制す……か」

 アレックスはエレトーンの言いたいことがなんとなくわかり、エレトーンの言葉を反芻する。今まで逃げることしか考えてこなかったアレックスに、エレトーンの言葉は衝撃的だった。
 だが、エレトーンのこの言葉で……アレックスの生きる道に光明が差した。
 そして、この日を境に、逃げるだけ受け身だけの生き方を捨て、反撃できるように学び始めた。
 こちらからわざわざ仕掛ける気はない。だが、来るなら全力で叩き潰せるように力をつけておこう……と。
 エレトーンは、よくも悪くも眠れる獅子を起こしたのであった。

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