大好きなあなたに、笑顔でまたねと言えますように
第二章 信じられない夏休み
「友里香さん、おはようございます」
「あら愛海ちゃんおはよう。今日は随分と早いのね」
今日はいつもより少しだけ早く起きた。まだ朝の五時半。それでも友里香さんは早起きで料理をしてくれている。
本当は根が優しいと分かっているけれど、それでもただの “優しい女性” としか見れない。
「ちょっと外に出てきますね」
「えっ、どこに行くの? 一人で大丈夫?」
「散歩するだけなので、大丈夫です。じゃあ行ってきます」
私はスニーカーを履き、家を出た。数カ月ぶりに履くスニーカーは、どこか特別な感じがした。やはり少しだけ足が窮屈だが、それは私が成長した証だろう。それも心地よく感じた。
今日朝早く起きて散歩するのを決めた理由は、何となくだった。数日前、ランニングしている人や散歩をしている人を見て、私もあんな風に何かに挑戦してみたいと思う。
けれど私は習い事や部活は入っていないし、特別な特技もない。だからその人達を見習って、まずは散歩から始めようと思った。明日から夏休みでキリが悪いけれど、思いついたら挑戦してみたくなった。
――綺麗だなぁ。
いつも通っている道なのに、時間が違うと別の道のように見える。ただの道端に咲く色とりどりの花や、まだ騒音がない住宅街。ここが住んでいる町なのか、と改めて実感した。
「あれ、水坂?」
「えっ。夏谷くん!?」
聞き覚えのある声がしたと思ったら、夏谷くんが首にタオルを巻いて、ランニングしていた。偶然すぎて私は言葉を失う。
「な、夏谷くん、おはよう。どうしてここに?」
「俺、いつも朝早くからランニングしてるから。水坂は? 今日初めて会うよな」
「わ、私は今日から散歩しようと思って。家近くだから、たまたま……」
――こんなこと、あるんだ。
眩しい太陽に照らされて、汗に靡く髪。透き通った瞳をしている、夏谷くんに見惚れてしまう。この人が、私の好きな人なんだ。と、不思議な再確認をする。
「俺も、家すぐそこだから。もう帰るとこ」
「あっ、そ、そうなんだね」
――もう帰っちゃうの。
口を開きかけ、慌てて閉じた。今夏谷くんに会ったばかりなのに、やはり時間がどんどん過ぎてしまう。別れが来るのは仕方のないことだけど、こんなに寂しいと思うのは初めてだった。
そんなことを考えたあとでハッ、と気がつく。これも私、全部顔に出ているのだろうか。笑顔を作らないと、笑顔を――。
「……ちょっと上がってく?」
「えっ?」
「三個上の姉貴がいるんだけどさ。後輩が欲しいって言ってたから、水坂が来たら喜ぶかなって」
予想外の言葉を言われて、私は頭の中が真っ白になった。友達の家にお邪魔させてもらうのは全然抵抗がない。
けれど異性の、しかも好きな人となると別なのだけれど。
「そ、その、私、朝ご飯があるから――」
「麗太ーっ、ちょっと遅いじゃんどうしたの?」
“麗太” と呼ぶその女性が、少し離れたところから私達のもとへ駆けてきた。同い年くらい、いや少し年上だろうか。
背中まである長い髪に、透明感のある真っ白な肌、背も高くてスタイルが良い。私とは比べ物にならないくらい、素敵な女性だ。
――まさかとは、思うけど。
「初めまして、こいつの姉の美桜です! あなたは、麗太の彼女?」
「かっ、彼女……!? い、いえ、私は夏谷くんのただの友達で、えっと、水坂愛海といいます」
やはり先程紹介してくれた、夏谷くんのお姉さんだった。凄い美人。と見惚れている場合ではなかった。私が夏谷くんの彼女と間違われたとき、心臓がバクバクだった。頭にまで鼓動が伝わる。
「愛海ちゃんね、うん、素敵な名前。これからも麗太のことをよろしくね、愛海ちゃん」
「あっ、はい、美桜さん、よろしくお願いします」
美桜さんの笑った顔は、夏谷くんのような眩しい笑顔ではなくて、儚げで美しかった。きっと仲良い素敵な姉弟なんだろうな、と羨ましくなる。私はきっと、沙耶香ちゃんとこんなに仲良くなれないから。本当の妹だと思ったこともないし。
――夏谷くんの前で、ネガティブになっちゃだめだよね。
笑顔、笑顔、笑顔。口角を無理矢理上げて、その呪いの言葉を脳内に繰り返す。“笑顔” は本当に呪文のようだった。
「あら、愛海ちゃんの靴、少し穴空いてない?」
美桜さんが不思議そうに私の足元を見つめた。私も同様に見ると、確かに小さい穴が空いていた。きっと中学生ぶりに履く靴だったから、指先が窮屈で穴が空いてしまったのだろう。
「女の子はね、とびっきりいい靴を履いたほうがいいんだって。その靴がきっと、幸せな未来に導いてくれるから」
――その言葉に、私の心を揺さぶられた。
私にも幸せと思える未来が来るといいな、と心から思う。
「あ、じゃあそろそろ私達帰るわね。愛海ちゃん、今度家に遊びにいらして」
「水坂、じゃあな」
私は一人寂しく家まで帰った。行きと違って、帰り道は青空にどんよりとした雲がかかっていて、私の気分も晴れなかった。
きっと今まで夏谷くんや美桜さんと話していたから、そういう寂しさが一気に溢れ出てくるのだろう。
――これからも毎日、散歩すれば夏谷くんに会えるかな。
今日の行動が、私の中の何かを変えた気がした。
「おはよー、まなみん」
「愛海ちゃんおはよう」
急いで帰宅したあと、準備をして学校へと足を運んだ。今日は横断歩道では夏谷くんと会えなかったけれど、散歩のとき話せたから特別寂しくはなかった。
「まなみん、明日って空いてる?」
「……へ? 明日?」
「夏休みが終わったら、テストがあるじゃない? 三人で勉強会しないかなと思って。私と花菜ちゃんは空いてるんだけど……」
私はスマートフォンを取り出して、入っている『カレンダー』のアプリをタップした。明日は特に予定が無かったから、ほっと一息ついた。
お父さんと二人暮らしだったときは、常に忙しかった。学校が終わったらすぐ帰宅し、夕飯を作る。そして食器洗いや風呂掃除。もちろん部活も入っていなかったし。
家族が増えた今では、私が家事をやる必要はなくなった。もちろん手伝いはするけれど。こうやって友達と遊ぶなんてこと、中学のときは一度もなかったな、と寂しく思う。
「明日、空いてるよ」
「よっしゃ、じゃあ決まりっ」
「明日が楽しみだね」
私も、明日が楽しみになった。 “明日” が来る保証はない、って分かってるのだけど。友達と初めての勉強会の約束をして、浮かれているのかもしれない。
――明日が幸せな一日になるといいな。
学校が終わり、放課後になった。急いで帰宅する準備をして、私は昇降口を出る。いつもの横断歩道へ行くが、夏谷くんには会わなかった。
――夏休みに入ったら、夏谷くんと会う時間も少なくなるのかな。
明日の楽しみもあるけれど、やはり夏谷くんに会えなかった寂しさが大きかった。
「ただいま」
「おかえりなさい、愛海ちゃん」
帰宅すると、友里香さんがいつものように台所に立って、料理をしていた。また晩ご飯を作っているのかと思ったら、どうやらお粥を作っている様子だった。
「友里香さん、何でお粥作ってるんですか?」
「ああ実はね、沙耶香が風邪引いちゃって。ちょっと熱が高いの」
――良かった。
そう思ってしまってハッとする。私はどんなに醜い人間なのだろうか。沙耶香ちゃんの心配よりも先に、今日は相手にしなくて済む、という安心のほうが大きかった。
「愛海ちゃんって、明日休みだよね?」
「そうです、けど」
「私、明日どうしても外せない仕事があって。愛海ちゃん、沙耶香の面倒を見てくれないかな?」
――私は頭の中が真っ白になった。友里香さんの仕事は、保育士。きっと明日は何かの行事があるのだろう。
今までの私だったら、笑顔で頷いていた。だって断ったら、私の今までのイメージが崩れてしまうから。 “いつも笑顔の水坂愛海” ではなくなってしまうから。
でも今日だけは、いつもとは別の強い気持ちがあった。花菜ちゃんや遥香ちゃんとの初めての勉強会の約束を楽しみにしている。家族を取るか、友達を取るか。いつもだったら、私はきっと選択できなかったけれど――。
「ごめん、なさい。私も明日、友達と勉強会をする約束があって」
「どうにか、お願いできないかな? お父さんもお仕事だし、愛海ちゃんしか頼める人がいなくて――」
「私も明日、大切な親友との約束があるんです。本当に、ごめんなさい」
友里香さんに頭を下げて、私は急いで階段を駆け上がった。花菜ちゃんと遥香ちゃんが、私の中にある弱い心を変えてくれた。
いつもの私だったら、強がりや臆病で胸が塞がっている。けれど、自分の気持ちを正直に言えるようになった。これは強い成長だと思う。
断ってしまった罪悪感と、友里香さんが私のことを嫌ってしまったらどうしようという不安も大きいけれど、私はそんなことより明日の勉強会のことが楽しみで仕方がなかった。
「あら愛海ちゃんおはよう。今日は随分と早いのね」
今日はいつもより少しだけ早く起きた。まだ朝の五時半。それでも友里香さんは早起きで料理をしてくれている。
本当は根が優しいと分かっているけれど、それでもただの “優しい女性” としか見れない。
「ちょっと外に出てきますね」
「えっ、どこに行くの? 一人で大丈夫?」
「散歩するだけなので、大丈夫です。じゃあ行ってきます」
私はスニーカーを履き、家を出た。数カ月ぶりに履くスニーカーは、どこか特別な感じがした。やはり少しだけ足が窮屈だが、それは私が成長した証だろう。それも心地よく感じた。
今日朝早く起きて散歩するのを決めた理由は、何となくだった。数日前、ランニングしている人や散歩をしている人を見て、私もあんな風に何かに挑戦してみたいと思う。
けれど私は習い事や部活は入っていないし、特別な特技もない。だからその人達を見習って、まずは散歩から始めようと思った。明日から夏休みでキリが悪いけれど、思いついたら挑戦してみたくなった。
――綺麗だなぁ。
いつも通っている道なのに、時間が違うと別の道のように見える。ただの道端に咲く色とりどりの花や、まだ騒音がない住宅街。ここが住んでいる町なのか、と改めて実感した。
「あれ、水坂?」
「えっ。夏谷くん!?」
聞き覚えのある声がしたと思ったら、夏谷くんが首にタオルを巻いて、ランニングしていた。偶然すぎて私は言葉を失う。
「な、夏谷くん、おはよう。どうしてここに?」
「俺、いつも朝早くからランニングしてるから。水坂は? 今日初めて会うよな」
「わ、私は今日から散歩しようと思って。家近くだから、たまたま……」
――こんなこと、あるんだ。
眩しい太陽に照らされて、汗に靡く髪。透き通った瞳をしている、夏谷くんに見惚れてしまう。この人が、私の好きな人なんだ。と、不思議な再確認をする。
「俺も、家すぐそこだから。もう帰るとこ」
「あっ、そ、そうなんだね」
――もう帰っちゃうの。
口を開きかけ、慌てて閉じた。今夏谷くんに会ったばかりなのに、やはり時間がどんどん過ぎてしまう。別れが来るのは仕方のないことだけど、こんなに寂しいと思うのは初めてだった。
そんなことを考えたあとでハッ、と気がつく。これも私、全部顔に出ているのだろうか。笑顔を作らないと、笑顔を――。
「……ちょっと上がってく?」
「えっ?」
「三個上の姉貴がいるんだけどさ。後輩が欲しいって言ってたから、水坂が来たら喜ぶかなって」
予想外の言葉を言われて、私は頭の中が真っ白になった。友達の家にお邪魔させてもらうのは全然抵抗がない。
けれど異性の、しかも好きな人となると別なのだけれど。
「そ、その、私、朝ご飯があるから――」
「麗太ーっ、ちょっと遅いじゃんどうしたの?」
“麗太” と呼ぶその女性が、少し離れたところから私達のもとへ駆けてきた。同い年くらい、いや少し年上だろうか。
背中まである長い髪に、透明感のある真っ白な肌、背も高くてスタイルが良い。私とは比べ物にならないくらい、素敵な女性だ。
――まさかとは、思うけど。
「初めまして、こいつの姉の美桜です! あなたは、麗太の彼女?」
「かっ、彼女……!? い、いえ、私は夏谷くんのただの友達で、えっと、水坂愛海といいます」
やはり先程紹介してくれた、夏谷くんのお姉さんだった。凄い美人。と見惚れている場合ではなかった。私が夏谷くんの彼女と間違われたとき、心臓がバクバクだった。頭にまで鼓動が伝わる。
「愛海ちゃんね、うん、素敵な名前。これからも麗太のことをよろしくね、愛海ちゃん」
「あっ、はい、美桜さん、よろしくお願いします」
美桜さんの笑った顔は、夏谷くんのような眩しい笑顔ではなくて、儚げで美しかった。きっと仲良い素敵な姉弟なんだろうな、と羨ましくなる。私はきっと、沙耶香ちゃんとこんなに仲良くなれないから。本当の妹だと思ったこともないし。
――夏谷くんの前で、ネガティブになっちゃだめだよね。
笑顔、笑顔、笑顔。口角を無理矢理上げて、その呪いの言葉を脳内に繰り返す。“笑顔” は本当に呪文のようだった。
「あら、愛海ちゃんの靴、少し穴空いてない?」
美桜さんが不思議そうに私の足元を見つめた。私も同様に見ると、確かに小さい穴が空いていた。きっと中学生ぶりに履く靴だったから、指先が窮屈で穴が空いてしまったのだろう。
「女の子はね、とびっきりいい靴を履いたほうがいいんだって。その靴がきっと、幸せな未来に導いてくれるから」
――その言葉に、私の心を揺さぶられた。
私にも幸せと思える未来が来るといいな、と心から思う。
「あ、じゃあそろそろ私達帰るわね。愛海ちゃん、今度家に遊びにいらして」
「水坂、じゃあな」
私は一人寂しく家まで帰った。行きと違って、帰り道は青空にどんよりとした雲がかかっていて、私の気分も晴れなかった。
きっと今まで夏谷くんや美桜さんと話していたから、そういう寂しさが一気に溢れ出てくるのだろう。
――これからも毎日、散歩すれば夏谷くんに会えるかな。
今日の行動が、私の中の何かを変えた気がした。
「おはよー、まなみん」
「愛海ちゃんおはよう」
急いで帰宅したあと、準備をして学校へと足を運んだ。今日は横断歩道では夏谷くんと会えなかったけれど、散歩のとき話せたから特別寂しくはなかった。
「まなみん、明日って空いてる?」
「……へ? 明日?」
「夏休みが終わったら、テストがあるじゃない? 三人で勉強会しないかなと思って。私と花菜ちゃんは空いてるんだけど……」
私はスマートフォンを取り出して、入っている『カレンダー』のアプリをタップした。明日は特に予定が無かったから、ほっと一息ついた。
お父さんと二人暮らしだったときは、常に忙しかった。学校が終わったらすぐ帰宅し、夕飯を作る。そして食器洗いや風呂掃除。もちろん部活も入っていなかったし。
家族が増えた今では、私が家事をやる必要はなくなった。もちろん手伝いはするけれど。こうやって友達と遊ぶなんてこと、中学のときは一度もなかったな、と寂しく思う。
「明日、空いてるよ」
「よっしゃ、じゃあ決まりっ」
「明日が楽しみだね」
私も、明日が楽しみになった。 “明日” が来る保証はない、って分かってるのだけど。友達と初めての勉強会の約束をして、浮かれているのかもしれない。
――明日が幸せな一日になるといいな。
学校が終わり、放課後になった。急いで帰宅する準備をして、私は昇降口を出る。いつもの横断歩道へ行くが、夏谷くんには会わなかった。
――夏休みに入ったら、夏谷くんと会う時間も少なくなるのかな。
明日の楽しみもあるけれど、やはり夏谷くんに会えなかった寂しさが大きかった。
「ただいま」
「おかえりなさい、愛海ちゃん」
帰宅すると、友里香さんがいつものように台所に立って、料理をしていた。また晩ご飯を作っているのかと思ったら、どうやらお粥を作っている様子だった。
「友里香さん、何でお粥作ってるんですか?」
「ああ実はね、沙耶香が風邪引いちゃって。ちょっと熱が高いの」
――良かった。
そう思ってしまってハッとする。私はどんなに醜い人間なのだろうか。沙耶香ちゃんの心配よりも先に、今日は相手にしなくて済む、という安心のほうが大きかった。
「愛海ちゃんって、明日休みだよね?」
「そうです、けど」
「私、明日どうしても外せない仕事があって。愛海ちゃん、沙耶香の面倒を見てくれないかな?」
――私は頭の中が真っ白になった。友里香さんの仕事は、保育士。きっと明日は何かの行事があるのだろう。
今までの私だったら、笑顔で頷いていた。だって断ったら、私の今までのイメージが崩れてしまうから。 “いつも笑顔の水坂愛海” ではなくなってしまうから。
でも今日だけは、いつもとは別の強い気持ちがあった。花菜ちゃんや遥香ちゃんとの初めての勉強会の約束を楽しみにしている。家族を取るか、友達を取るか。いつもだったら、私はきっと選択できなかったけれど――。
「ごめん、なさい。私も明日、友達と勉強会をする約束があって」
「どうにか、お願いできないかな? お父さんもお仕事だし、愛海ちゃんしか頼める人がいなくて――」
「私も明日、大切な親友との約束があるんです。本当に、ごめんなさい」
友里香さんに頭を下げて、私は急いで階段を駆け上がった。花菜ちゃんと遥香ちゃんが、私の中にある弱い心を変えてくれた。
いつもの私だったら、強がりや臆病で胸が塞がっている。けれど、自分の気持ちを正直に言えるようになった。これは強い成長だと思う。
断ってしまった罪悪感と、友里香さんが私のことを嫌ってしまったらどうしようという不安も大きいけれど、私はそんなことより明日の勉強会のことが楽しみで仕方がなかった。