その溺愛、契約要項にありました?〜DV婚約者から逃れたら、とろ甘な新婚生活が待っていました〜

12 馬車の中の悪夢

馬車に乗り込むと、すぐにグランドリーは不機嫌そうに足を組んで座ったものの、出発してしばらくは何も話すことはなかった。

帰宅する賓客達の馬車でなかなか馬車も動くことがなく、嫌な沈黙が続いた。

そしてようやく馬車が動き出して、路地に出た頃には彼は目に見えてイライラしながら私をにらみつけていた。


「おい、俺が知らないと思うなよ、あいつと話をしていただろう」

開口一番はこの言葉だった。あいつの指すものが誰であるのか、それは考えずとも分かった。

さぁっと頬から血の気が引いていくのが分かった。

なぜ、だって彼は見ていなかったはずだ……。

そんな私の表情を見て彼は、「ハッ!」と鼻で笑う。

「うまく出し抜いたつもりだったか……残念だな。お前を見張らせていたんだ別に俺が直接見て居なくとも、お前の周囲には俺の眼がたくさん光っていたんだよ」

残念だったなと、せせら笑うように彼は言って、私の顔を覗き込む。

「俺、言ったよなぁ、あいつと会話するなって……」

「挨拶されたら、返すのが礼儀でしょ? それ以外には会話はしてないわ、手だって、っ痛‼︎」

バチンと大きな音と衝撃が左の頬に走った。一瞬何が起こったのか理解できなくて、呆然として、あぁ……叩かれたのだと理解するのに時間がかかった。

「約束したくせに! 守れないくせに言い訳してんじゃねぇよ」

低い声……あの日最後に彼が囁いた冷たくて無機質な声が私の頭上から落ちてきた。

そうして、未だ混乱する私の顎をつかむと顔を上げさせられて、あのギラリと光る青い瞳が私を冷たく見下ろしていて、私は恐怖でその瞳から視線を外すことができなかった。


「痛いだろ? でもお前に裏切られた俺の痛みはこんなもんじゃ足りねぇよ。この俺をコケにしやがって!」

バチンともう一度、頭がくらりとするような衝撃と音と共に、右頬を叩かれて、ジワリと口の中に血の味が広がる。

「おい、答えろ、あいつと浮気してるんだろ?」

「っ……ちがうわ!」

バチンともう一度頬を叩かれて、同時に首をつかまれる。
強い力で後ろの壁に縫い留めるように押さえつけられてあえぐように顎を上げると、上から彼が顔を覗き込む。

「じゃあ何か、俺の事をあいつに垂れ込んでるのか? 婚約者の癖に、お前はあいつの肩を持つのかよ」

「っちがうっ!・・・ぐっ!」

ドスンと今度は腹を打ち付けられて、強烈な痛みが走る。

殺される! そんな思いが頭をよぎる。

「じゃあ謝れよ。俺に、裏切ってごめんなさいってよぉ。これからはあなたの言いつけを守りますって、頭下げて約束しろよ!」

掴まれていた首を離されて、あえぐように呼吸をしている頭の上から、彼の冷たくてどこか楽しんでいるような声が降ってくる。

叩かれた衝撃でよく頭が回らない。だけど……これが、この男の正体だったのだと、それだけは私の中で確信できた。

そうしてなぜか、先日自分に向けられたロブダート卿の真っすぐで強い瞳を思い出した。

逃げなきゃ‼︎

先ほどまで一切なかった焦燥感が押し寄せる。

これ以上この男のそばにいてはいけない……いるべきではない!


そう思ったと同時に身体が動いていた。

肩にかけていたストールを引き抜いて、グランドリーの顔に投げつけると、すぐに馬車の扉へ手を伸ばし、内鍵を外すと扉を開く。

「っ‼︎ くそっ‼︎」

ストールが顔に絡まり、毒ずくグランドリーを一瞥して、私は靴を脱ぎ棄てて、走り続ける馬車から飛び降りた。


幸いにも馬車のスピードはさほど速くなくて、膝をついただけですぐ走り出す事が出来た。

「お嬢様‼︎」

「何を‼︎」

御者と護衛が驚いて声を上げて呼び止め、馬車を止める音が聞こえるけれど、私はそれを無視して、路地に入る。ドレスをたくし上げて、いくつかの小道をがむしゃらに曲がる。

後ろから護衛達が追ってくる声と、「必ずつ捕まえろ!」と癇癪を起すグランドリーの声が響いて来るけれど、私は振り返ることなく走り続ける。

そうして、角を一つ曲がると、先ほどまでと同じ大きな通りに飛び出してしまった。


まずい、戻ってしまった!

そう思った矢先に、目の前にガラガラと馬車がやってきて止まる。同時に、扉が開いて、中から手を差し伸べる人影が現れる。

「ティアナ嬢! 乗れ‼︎」

月明かりが逆光になってその顔ははっきりと見えなかったけれど、その声はまぎれもなく、ロブダート卿の声で。

考える間もなく私はその手に縋って、抱きとめられるように馬車の中に引きずり込まれた。
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