その溺愛、契約要項にありました?〜DV婚約者から逃れたら、とろ甘な新婚生活が待っていました〜

79 誘い①【ラッセル視点】

♦︎♦︎
夕暮れ時の少しひんやりとした空気の中を背を丸めて早歩きで歩く。
午後になり少しばかり風が出て来たとは思っていたが、この風がなかなかの曲者だった。

王太子殿下の執務室から、積み上げた書類の束を数十メートル先の管理棟まで持ち運ぶのに、建物の中をぐるりと回りこむよりも、一旦外に出て行く方が早いだろうと、そう算段を付けたのに大切な書類を風に飛ばされてはたまったものではない。

とにかく一枚もとばされないように書類をしっかりと抱き込みながら、何とか管理棟の建物に到着した。

後について来た部下達を振り返れば、どうにか一枚も損じることなく彼等も来られたらしい。
今日は珍しく、殿下の仕事の流れが上手く回り、これを提出してしまえば、仕事が片付くところまで来ている。
今日こそは、ゆっくりとティアナとの時間が取れる。
ようやくできた時間だ。随分と胸の内にはもやもやした思いが渦巻いている。それも今夜で解消できるだろう。ほっと息をついて、上階に向かう階段を見上げた時、目の前に現れた男の顔を見て、突然頭の上から冷水を浴びせられたような、胸の奥を鷲掴みされたような感覚に陥った。

実際に顔を見るのは2回目だが、見慣れた感じがするのは、ここ数日ダルトンの報告書に張り付けられた写真を眺めているからだろうか。

俺が自分に目を止めて、言葉を失ったのをみたリドックは、こちらを見下ろしながら、笑みを浮かべた。

「これは、ロブダート卿、随分とお忙しそうですね」

その余裕そうな不敵な笑みがいっそう胸の内をざわめかせる。
「えぇ、急いでこの書類を提出に行かねばなりませんので。それより、なぜ貴方がこちらに? 議場関連は北側の棟ですが?」

ここは内政関連を取り扱う部署が入っている棟であって、王族の側近でもない彼に用があるとは思えないのだ。
訝しむように問いかけると、どうやら俺からそうした指摘を受ける事が織り込み済みだった様子の彼は一瞬だけつまらなそうに眉を歪めた。

「こちらで働いている知人に面会の予定があったので、間違ってはいませんよ。ついでに貴方と少しお話ができたらと思ったので知人にどうしたら面会できるか聞いたところ、もうすぐ書類を届けに来る頃合いだと言われたのでお待ちしていたのですよ」

「俺に? いったい何の用でしょう?」
大方の内容に見当は付くものの、あえて分からないという顔で問いかけてみると、彼は俺から視線を逸らし、俺の後方に控えている者達を気にする素振りを見せる。要は人払いをしろという事なのだ。

仕方なく、後方の部下達を見れば、彼等は少々戸惑いながらも、事態を察知して頷いた。

「先に行きます。」
「あぁ、俺もすぐに追いつく」

短く会話を交わして彼らが行ってしまうのを互いに無言で見送る。

「さて、お話とは?ご存じの通り私は仕事中の上、気にかけていただいた通りとても忙しいので、手短にお願いしたいのですが……」

そう言って今手にしている書類を持ち上げて見せると、リドックは少々苛立ったように眉を寄せる。

「手短に、できる話ではないですよ」

突然押しかけてきて随分と不遜な言いようである。

「いったい何のお話で?」
少しばかりムッとして冷たい問いかけを返す。
すると彼は一つ大きく息をついて首を振った。

「お分かりでしょう? 俺の事を調べさせているのは知っています。俺と彼女の約束を知っておられるはずだ」

やはりその件であったらしい。そうであるならば、このような場で話すことははばかられる。場合によってはティアナの名誉にかかわる事なのだ。

「では、どこかで時間を作りましょう」

俺の言葉に、リドックが満足げに口角を上げ微笑む。彼の思い通りの反応を俺がしている事を面白がっているような様子に内心苛立ちを覚えるが、顔に出すことを抑える。幸い普段から表情が乏しいと定評があるだけに、難しくはない。

「えぇ、では今夜、こちらに」
そう言ってリドックは自身の胸ポケットから小さなカードを差し出してくる。
「僕のオフィスの住所です。こちらに戻ってきてすぐに事業用に用意したものです。ここなら邪魔も入りませんし、人に聞かれる事もない」

差し出されたカードを見れば、確かに、都の区画の住所と建物の名前と部屋番号が書かれている。
しかし

「今日、ですか?」
確かに今日は仕事がいつもより早く終わりそうではある。しかしまず何より今日はティアナときちんと話をしたいと思っていた。特にこの男と今後それに関連した話をする事になるのであれば直のことだ。

眉を寄せると、リドックは困ったように、しかしどこか皮肉気な笑みを浮かべる。
「えぇ、早い方がいいと思いまして。今日彼女と話して僕はそう感じました」

「今日……彼女と?」
二人は会っていたのか?
突然放り込まれた事実に、つい声のトーンが下がる。

今日、二人が会って、何を話したと言うのだ? その上で早い方がいいとリドックが提案していることが一体何なのだろうか……
先日からずっと胸の内でくすぶらせている不安な思いがどんどんと大きく膨らんでくるように感じる。

流石に表情を取り繕う事を忘れてしまったのだろう。リドックが勝ちを確信したように笑みを深くすると、一歩俺に近づいてきて、一段上で足を止めると身を屈ませる。
「契約結婚、なんですってね? ティアナからきいています」

どこか愉快そうな……そしてわずかに侮蔑を含んだような言葉に、息を飲む。

なぜ今、彼の口からそんな言葉が出てきたのだろうか。
咄嗟にコクリと唾を飲み込むと、彼は俺の横を通り過ぎて階段を下って行く。

「では、今夜お待ちしておりますね」

そう勝ち誇ったような声を背中で聞く。
振り返ることはできなかった。

恐らく、今の俺は表情を隠しきれていないだろうから。


彼の足音が階段を降り切って、建物を出て行くまでの間、リドックが立ち去り際に手にした書類の上に置いて行ったカードをしばらくじっと睨みつける事しかできなかった。
契約結婚の事は、自分も彼女も信頼の置ける者達以外には不必要に話すことはない。
特にティアナは、自身の親や親友にも話すつもりはないと以前に言っていた。それを彼女がリドック話をしたというのならば、二人の関係はやはり……

そこまで考えて首を振る。

とにかく、仕事を終わらせて……早めにリドックの元に向かおう。
そして、今夜の内にティアナともきちんと話そう。

手にした書類を持ち直して、気を奮い立たせて、一段を踏み込んだ。
< 79 / 129 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop