執愛音感~そのメロディは溺愛不可避~
「美味しかったですね」
「……そう、ですね」
これは同意していい問いかけだ。
けれど次は?
どんなシナリオが描かれているの?
己の腕をきゅっと掴んでしばし思考に沈む。
すると柾樹は、それを咎めるように響子を呼んだ。
「大丈夫、信じてください」
「な、にを」
「俺が言うことを。嘘は嫌いって言いましたよね」
「信じられるほど、貴方のこと、知らないもの」
柾樹にとって都合のいい展開を自分のひと言で呼び寄せた気がする。響子はグラスを傾けた。
冷たいミネラルウォーターは喉に燻る熱に触れて、戸惑うように弾けて落ちていく。
「でも、俺は貴方を知っていますよ」
その時、突然聞き覚えのあるメロディが耳に飛び込んできた。
愛の挨拶だ。
音を介して正気に引き戻された響子の表情に、柾樹もまたメロディに耳を傾ける。
「おあつらえ向きですね。今ここでこの選曲とは」
苦笑した柾樹の瞳がすうと細められる。
愛おしいものを見るまなざしか。
少し、違う。
こちらの出方を窺う目つき。
それともやはり違う。
焦点が合っているはずなのに、どこか上の空に見える視線が捉えているのは──過去だ。
「10年前の愛の挨拶。挨拶にしては重すぎる、息もつけないような旋律に俺は溺れかけました」
ひと言で、耳の奥が過去へと遡る。
逆回しの時計の針が刻むのは時間ではなく拍子だ。
BGMとして流れているのは、かくあるべしとされたリズムに乗って奏でられるメロディだ。
しかしそれは、響子の解釈で生まれた窒息寸前の重たい調べにすり変わる。記憶の中の五線譜から抜け出てきたそれは、今ここにある現実を一音一音塗り替えていく。
「……高階さん、あの会場にいたんですか」
「俺が設計したんですよ。壁の材質だとか、いろいろと挑戦を重ねたプロジェクトだったので、どうしても見届けたかった。関係者席の隅っこで充分だったんですが、何故か審査員席に座らされまして、緊張しました」
響子の記憶に、講評が記された紙片が過ぎる。
──技術は高いのだから楽譜に忠実に。
──評価された予選を経ての本選であることを自覚するように。
──過度の独創性は楽曲を破綻させる。指導員と再度アナリーゼを徹底すること。
予想通りの言葉の羅列と評価Cランクが並ぶ紙面の中、異彩を放っていたのはたったひとつのAランク。
ささやかに光を放つ星々を蹴散らして君臨する満月のように、それは確かな輝きで響子の目を奪い、息の詰まる講評を吹き飛ばした。
──素晴らしい演奏でした。これを書いている今も尚、情熱的なメロディに心を囚われています。
「……あのAランク、もしかして」
顔を上げた先で、柾樹は深く頷いた。
柔らかくウェーブした前髪の奥で、ミルクティー色の瞳が光を帯びる。
「覚えていてくれたんですね。そう……ゲストの俺が審査に影響を与えることはないと知ってはいましたが、どうしても伝えたくて。演奏者でもない俺が評するのもおこがましいですが、精一杯、感じたことを書かせて頂きました」
文字数制限に苦労したんですよ、と苦笑する柾樹の表情をなんと見るべきか、今の響子にはうまく処理できない。
自分が今、どのような顔をしているのかすら把握できないのだから。
「わ、わたし、あの評価に……すごく、救われました。先生からは楽譜通りに弾きなさいって口を酸っぱくして言われ続けて、でも私の解釈は違う、愛しいひとのために想いをこめて弾いたなら、もっと寄り添うような旋律になるはず。気まぐれなキスじゃなくて、全身で掻き抱くような情熱を秘めているはずって、そう思ってて……それで、予選で押し込めていたものを最終の本選で全部出したんです」
テーブルの下で拳を握る。
自分の手のひらの熱に突き動かされるように、メロディが言葉に形を変えて響子の中から溢れ出てくる。
それを静かに受け止めている柾樹は、初めて話を遮らずに響子に向き合っていた。
「結果は、まあご存知の通りで……先生の顔に泥を塗ってしまったので、結局やめることになりましたが、それでも、あのAランク評価は宝物でした。審査員の匿名性を保つために、誰が書いたのかわからないまま今日まで来てしまいましたが、もし、叶うなら、会ってお礼を伝えたいなって……そう、思っていたんですよ」
耳にする自分の声が、今まで柾樹と相対していた時のどんな場面より凪いでいるのが感じとれる。
それとは裏腹に、胸の中では衝動に突き動かされっぱなしの感情に精一杯のストップをかけようと、理性が躍起になっている。
自分の演奏を認めてくれた唯一のひと。
それだけで、彼を全面的に信用することなどできはしない。
頭ではきちんと理解している。
握ったままの手のひらに鋭く爪を立てて、ともすれば運命──などと飾り立てたくなるこの出会いに身を委ねることを踏みとどまる。
「お礼はもう充分頂いています。俺は──また貴方の音色に溺れたいって、ずっと考えていましたから」
しかし、響子がそうやって必死に築いた予防線など、柾樹はひと言で崩してしまった。
「……そう、ですね」
これは同意していい問いかけだ。
けれど次は?
どんなシナリオが描かれているの?
己の腕をきゅっと掴んでしばし思考に沈む。
すると柾樹は、それを咎めるように響子を呼んだ。
「大丈夫、信じてください」
「な、にを」
「俺が言うことを。嘘は嫌いって言いましたよね」
「信じられるほど、貴方のこと、知らないもの」
柾樹にとって都合のいい展開を自分のひと言で呼び寄せた気がする。響子はグラスを傾けた。
冷たいミネラルウォーターは喉に燻る熱に触れて、戸惑うように弾けて落ちていく。
「でも、俺は貴方を知っていますよ」
その時、突然聞き覚えのあるメロディが耳に飛び込んできた。
愛の挨拶だ。
音を介して正気に引き戻された響子の表情に、柾樹もまたメロディに耳を傾ける。
「おあつらえ向きですね。今ここでこの選曲とは」
苦笑した柾樹の瞳がすうと細められる。
愛おしいものを見るまなざしか。
少し、違う。
こちらの出方を窺う目つき。
それともやはり違う。
焦点が合っているはずなのに、どこか上の空に見える視線が捉えているのは──過去だ。
「10年前の愛の挨拶。挨拶にしては重すぎる、息もつけないような旋律に俺は溺れかけました」
ひと言で、耳の奥が過去へと遡る。
逆回しの時計の針が刻むのは時間ではなく拍子だ。
BGMとして流れているのは、かくあるべしとされたリズムに乗って奏でられるメロディだ。
しかしそれは、響子の解釈で生まれた窒息寸前の重たい調べにすり変わる。記憶の中の五線譜から抜け出てきたそれは、今ここにある現実を一音一音塗り替えていく。
「……高階さん、あの会場にいたんですか」
「俺が設計したんですよ。壁の材質だとか、いろいろと挑戦を重ねたプロジェクトだったので、どうしても見届けたかった。関係者席の隅っこで充分だったんですが、何故か審査員席に座らされまして、緊張しました」
響子の記憶に、講評が記された紙片が過ぎる。
──技術は高いのだから楽譜に忠実に。
──評価された予選を経ての本選であることを自覚するように。
──過度の独創性は楽曲を破綻させる。指導員と再度アナリーゼを徹底すること。
予想通りの言葉の羅列と評価Cランクが並ぶ紙面の中、異彩を放っていたのはたったひとつのAランク。
ささやかに光を放つ星々を蹴散らして君臨する満月のように、それは確かな輝きで響子の目を奪い、息の詰まる講評を吹き飛ばした。
──素晴らしい演奏でした。これを書いている今も尚、情熱的なメロディに心を囚われています。
「……あのAランク、もしかして」
顔を上げた先で、柾樹は深く頷いた。
柔らかくウェーブした前髪の奥で、ミルクティー色の瞳が光を帯びる。
「覚えていてくれたんですね。そう……ゲストの俺が審査に影響を与えることはないと知ってはいましたが、どうしても伝えたくて。演奏者でもない俺が評するのもおこがましいですが、精一杯、感じたことを書かせて頂きました」
文字数制限に苦労したんですよ、と苦笑する柾樹の表情をなんと見るべきか、今の響子にはうまく処理できない。
自分が今、どのような顔をしているのかすら把握できないのだから。
「わ、わたし、あの評価に……すごく、救われました。先生からは楽譜通りに弾きなさいって口を酸っぱくして言われ続けて、でも私の解釈は違う、愛しいひとのために想いをこめて弾いたなら、もっと寄り添うような旋律になるはず。気まぐれなキスじゃなくて、全身で掻き抱くような情熱を秘めているはずって、そう思ってて……それで、予選で押し込めていたものを最終の本選で全部出したんです」
テーブルの下で拳を握る。
自分の手のひらの熱に突き動かされるように、メロディが言葉に形を変えて響子の中から溢れ出てくる。
それを静かに受け止めている柾樹は、初めて話を遮らずに響子に向き合っていた。
「結果は、まあご存知の通りで……先生の顔に泥を塗ってしまったので、結局やめることになりましたが、それでも、あのAランク評価は宝物でした。審査員の匿名性を保つために、誰が書いたのかわからないまま今日まで来てしまいましたが、もし、叶うなら、会ってお礼を伝えたいなって……そう、思っていたんですよ」
耳にする自分の声が、今まで柾樹と相対していた時のどんな場面より凪いでいるのが感じとれる。
それとは裏腹に、胸の中では衝動に突き動かされっぱなしの感情に精一杯のストップをかけようと、理性が躍起になっている。
自分の演奏を認めてくれた唯一のひと。
それだけで、彼を全面的に信用することなどできはしない。
頭ではきちんと理解している。
握ったままの手のひらに鋭く爪を立てて、ともすれば運命──などと飾り立てたくなるこの出会いに身を委ねることを踏みとどまる。
「お礼はもう充分頂いています。俺は──また貴方の音色に溺れたいって、ずっと考えていましたから」
しかし、響子がそうやって必死に築いた予防線など、柾樹はひと言で崩してしまった。