執愛音感~そのメロディは溺愛不可避~
「……ん、美味しいです」
「俺のも。響子さんのおかげで楽しいディナーになりますね」
「だから私の手柄じゃ……」

どこまでも響子を持ち上げる物言いに、これ以上言っても無駄かと諦めて料理を味わうことにした。
本日のおすすめ、と紹介されたオレキエッテはソースがよく絡めてあって、つい口角が上がる。添えられたルッコラの苦味も丁度いい。
先程目を通したランチのコースにも気になる料理がいくつかあるし、これは何かの折に使う店のリスト入りだ。
そんなことを考えていると、柾樹がこちらを見ている。慌てて口元をナフキンで拭った。

「…………何か」
「ああ、気づかれてしまった。勘が鋭いですね」
「素面ですから、そりゃあね」
「飲まないんですか?」

柾樹は響子のグラスを見る。透明なそれはミネラルウォーターだ。

「明日も仕事ですし。初対面の方の前でお酒は飲みませんよ」
「俺のこと、警戒してますね」
「あの状況で再会すればそうでしょう……」

警戒していると肯定されているくせにどこか嬉しそうな柾樹は、カルトッチョをぱくりと頬張った。優男の見た目ではあるものの、ひと口が大きく、男性であることを否が応でも意識してしまう。

「いいと思います。響子さんは通勤時間も長いし、どこで何があるかわかりませんからね。警戒して足りないことはないでしょう。今日みたいに付き纏われたらと思うと、気が気じゃありませんよ」
「それ、自虐ですか?」
「え?」

皮肉のつもりで突っ込んだのだが、柾樹はピンと来ていないらしく、きょとんとしている。100パーセント、上野のことを指しているに違いない。
不審者の自覚があるのかないのか、判断のつかない男である。

「いっそ、この辺りに引越しなんていかがですか?」
「はい?」
「幸い、渡欧する前の家は引き払ってあって、今はホテル暮らしです。住居の自由は利きますよ」
「あの」
「今よりお寝坊できますし、通勤ラッシュからも解放される。今日みたいに待ち合わせてデートしてから帰るのも楽しそうです」
「高階さん、ちょ、ちょっと待って」
「あ、何かプランがありましたか。転職のご予定でも? それでしたら新しい職場の近くにしますのでご安心を」

響子の話を聞いているようで、その実さっぱり聞いていない。完全に彼のペースだ。
手のひらで制し、小休止を宣言する。こういう時に柾樹は詰め寄らないようだ。おとなしく従い、口を噤む。

「私の通勤時間、ご存知なんですか?」
「あの喫茶店の近くにお住まいですよね。あれはいいピアノです。また響子さんが弾くのであれば、ぜひお邪魔したい」

ここで頷くと大切な個人情報を売り渡したことと同義である。否定も肯定もせずに流すことにした。

「……あの、どうして付き合ってもいない人と住むんですか。それにこの辺りの家賃なんて、考えただけで、その」

オフィス街からは少し外れているとはいえ、都心部ど真ん中にあるのが響子の職場だ。ここは通勤するところであって、住む地域では無い。それは家賃においても、だ。

「俺は響子さんの安全を一番に考えただけですよ。まあオプションとしてデートもできたらなーと欲を出しましたが」

けろりと返す柾樹は「響子さんから家賃を頂こうなんて考えていませんよ」と続けた。
会話の端々から、この男の収入が響子のそれより格段に上だとは察していたものの、面と向かって言われると、それはそれでカチンとくる。
響子の顔色が変わったことを察知した柾樹は、宥めるようにどうどうと両手を広げる。

「これは貴方の賃金を軽く見たという話ではありません。俺のわがままで同居してもらうのに、どうしてそれ以上にあなたから頂けるというんですか」
「同居する体で話を進めないでくださいよ。私は高階さんと付き合ってないし、付き合うつもりもありません」
「今現在はともかく、未来のことはわかりませんよ?」

自信満々に返した柾樹は、今にも噛みつかんばかりの響子の睨みすらうっとりと眺める。

「…………どうして、そんなに私にこだわるんですか。悪ふざけかと思ってたけど、違う気がします」
「はは、そこまで暇人でも性悪でもないですよ。俺が欲しいのは響子さんだけです」

ドラマや小説でしか縁のない台詞を気負わずにさらりと告げられて、ひょっとしたらこのやりとりも芝居の一部ではないかと錯覚する。
流行りのロマンス詐欺かもしれないし、突拍子のないことを言えば、高熱の時に見る夢だ。
目が覚めたらそこは自宅のベッドで、汗だくになって唸っているかもしれない。
合わせた視線から広がっていく世迷言に侵食されそうで、響子は皿の中身に逃げ込む。
現実逃避のために食べ進めていったオレキエッテはそれでも美味しくて、どこか後ろめたい気持ちにさせられた。
ドルチェを頼まずにいて正解だった。
このテーブルには妙に甘い言葉ばかりが溢れかえっていて、胸焼けしかねない。
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