執愛音感~そのメロディは溺愛不可避~
「……明日もお仕事なんですよね。残念だ」
「最初からそう言っているじゃないですか」
店を出て駅へ向かう道すがら、柾樹はずっともう少し長く居たいと言外に言い募っている。
店内ではBGMのムードもあって流されそうになった響子だが、食事を終えて夜の空気に火照った頬が冷やされると頭がすっきりしてきた。
こうなると、押し切られて会計を柾樹に払わせてしまったのが悔やまれる。
金銭にとやかく言うタイプではなさそうだが、交渉材料のひとつにされては面倒だった。
影法師のようについてくる柾樹を振り切らんと大股で歩き続けていると、地下鉄の入口が見えてきた。
「高階さん、もうここでお別れしましょう」
「心配なのでご自宅の最寄り駅まで……いえ、ご自宅までお供しますよ」
「お断りします」
きっぱりと言い放って体の前でバツ印を作った響子はどう見ても揺るぎそうにない。
それを見てとった柾樹は肩を落としつつも引き下がる。
「金曜日の夜、響子さんのお時間を頂いていいですか。ピアノのある所でお会いしたいです」
否、駆け引きに転じただけだった。
「……ピアノ? 貸教室とか、ストリートピアノとかですか」
頑なだった響子が少し反応した。
一度、静江の店で弾いて以来、何年もの間押し込めていた演奏への欲求が再び燻りだしている。
ゆらりと顔を見せたその炎の一部をキャッチした柾樹は「そんなところですね。場所をお伝えしたいので連絡先を交換しましょう」と詰めてきた。
「れ、連絡先? それは」
「教えてくださらないと、週末まで毎日職場の前までお迎えに上がりますが」
再び巣穴に潜ろうとする響子の手をしっかりと掴んで離さない柾樹は、爽やかな笑顔でえげつないことを言い出した。
上野に抱かせた大いなる誤解を、もれなくオフィスの人間すべてに振りまくつもりだ。瞬きひとつせず言い切った目は本気だった。
渋々登録した(させられた)柾樹のアイコンは無機質なグレーの壁紙のようだ。首を傾げた響子の疑問を汲み取って柾樹は先回りして答えた。
「無響室の壁です」
「むきょうしつ?」
「音が響かない部屋のことです。余計な響きを消して、家電の駆動音を測定したりする部屋ですね」
頭の中で漢字変換する。読んで字の如しか。
「ああ、掃除機とか、洗濯機とか? 静音性を高めて、夜に使ってもご近所迷惑にならないっていう……」
「それです。宣伝文句のための根拠を作るんですよ」
「なるほど……」
それを何故アイコンに? と訝しむも、柾樹は既に響子のアイコンに夢中だった。スマホを掲げて凝視している。
「マフィンですか? もしや響子さんお手製の?」
「残念でした。しぃちゃ……叔母の喫茶店のものです。私はお菓子作りは得意ではないので」
「……そうですか。響子さんのじゃないのか……」
もし彼が犬なら、ちぎれんばかりに振り回していた尻尾もろとも力無く地面に伏して、全身で落胆をアピールしているところだ。
こうもあからさまにしょげかえられると、自分がいじめているような気になる。
「マフィンならこの辺りのお菓子屋さんでも売ってますから」
「いいえ、別にマフィンが食べたいわけではないので……」
めんどくさいひとだな、と言いかけた唇を引き結ぶ。彼が意気消沈しているうちに逃げるが勝ちだ。
「それではこの辺で」
たたた、と小走りで改札に入る。
ようやく物理的な距離が生まれた。
改札に響子を盗られた──とでも言いたげな柾樹のじっとりとしたまなざしに噴き出しかけたが、下手に刺激して改札を突破されても大変なので、響子は深くお辞儀をして誤魔化した。
「晩ご飯、ご馳走様でした。おやすみなさい」
「響子さん、いつでも連絡してきて構いませんよ」
最後まで噛み合わない会話にげんなりしつつ、早足でホームに降りて行った。
「最初からそう言っているじゃないですか」
店を出て駅へ向かう道すがら、柾樹はずっともう少し長く居たいと言外に言い募っている。
店内ではBGMのムードもあって流されそうになった響子だが、食事を終えて夜の空気に火照った頬が冷やされると頭がすっきりしてきた。
こうなると、押し切られて会計を柾樹に払わせてしまったのが悔やまれる。
金銭にとやかく言うタイプではなさそうだが、交渉材料のひとつにされては面倒だった。
影法師のようについてくる柾樹を振り切らんと大股で歩き続けていると、地下鉄の入口が見えてきた。
「高階さん、もうここでお別れしましょう」
「心配なのでご自宅の最寄り駅まで……いえ、ご自宅までお供しますよ」
「お断りします」
きっぱりと言い放って体の前でバツ印を作った響子はどう見ても揺るぎそうにない。
それを見てとった柾樹は肩を落としつつも引き下がる。
「金曜日の夜、響子さんのお時間を頂いていいですか。ピアノのある所でお会いしたいです」
否、駆け引きに転じただけだった。
「……ピアノ? 貸教室とか、ストリートピアノとかですか」
頑なだった響子が少し反応した。
一度、静江の店で弾いて以来、何年もの間押し込めていた演奏への欲求が再び燻りだしている。
ゆらりと顔を見せたその炎の一部をキャッチした柾樹は「そんなところですね。場所をお伝えしたいので連絡先を交換しましょう」と詰めてきた。
「れ、連絡先? それは」
「教えてくださらないと、週末まで毎日職場の前までお迎えに上がりますが」
再び巣穴に潜ろうとする響子の手をしっかりと掴んで離さない柾樹は、爽やかな笑顔でえげつないことを言い出した。
上野に抱かせた大いなる誤解を、もれなくオフィスの人間すべてに振りまくつもりだ。瞬きひとつせず言い切った目は本気だった。
渋々登録した(させられた)柾樹のアイコンは無機質なグレーの壁紙のようだ。首を傾げた響子の疑問を汲み取って柾樹は先回りして答えた。
「無響室の壁です」
「むきょうしつ?」
「音が響かない部屋のことです。余計な響きを消して、家電の駆動音を測定したりする部屋ですね」
頭の中で漢字変換する。読んで字の如しか。
「ああ、掃除機とか、洗濯機とか? 静音性を高めて、夜に使ってもご近所迷惑にならないっていう……」
「それです。宣伝文句のための根拠を作るんですよ」
「なるほど……」
それを何故アイコンに? と訝しむも、柾樹は既に響子のアイコンに夢中だった。スマホを掲げて凝視している。
「マフィンですか? もしや響子さんお手製の?」
「残念でした。しぃちゃ……叔母の喫茶店のものです。私はお菓子作りは得意ではないので」
「……そうですか。響子さんのじゃないのか……」
もし彼が犬なら、ちぎれんばかりに振り回していた尻尾もろとも力無く地面に伏して、全身で落胆をアピールしているところだ。
こうもあからさまにしょげかえられると、自分がいじめているような気になる。
「マフィンならこの辺りのお菓子屋さんでも売ってますから」
「いいえ、別にマフィンが食べたいわけではないので……」
めんどくさいひとだな、と言いかけた唇を引き結ぶ。彼が意気消沈しているうちに逃げるが勝ちだ。
「それではこの辺で」
たたた、と小走りで改札に入る。
ようやく物理的な距離が生まれた。
改札に響子を盗られた──とでも言いたげな柾樹のじっとりとしたまなざしに噴き出しかけたが、下手に刺激して改札を突破されても大変なので、響子は深くお辞儀をして誤魔化した。
「晩ご飯、ご馳走様でした。おやすみなさい」
「響子さん、いつでも連絡してきて構いませんよ」
最後まで噛み合わない会話にげんなりしつつ、早足でホームに降りて行った。