執愛音感~そのメロディは溺愛不可避~
「……ピアノのある所って、貸教室じゃなかったんですか」
「そんなところですね、とは言いましたが……何か問題ありますか?」
「いや、問題っていうか……」

連れてこられたのは、テレビでしか見たことのない老舗ホテルの、恐らく最上階であろうスイートルーム。
間接照明に浮かび上がるモノトーンの廊下を抜けて、スリッパが埋もれそうな絨毯の感覚に気を取られていると、グランドピアノが飛び込んできた。
慌てて目を逸らすと、壁一面を絵画のように映した窓には宝石箱をひっくり返したような、と陳腐なフレーズがしっくりきそうな夜景が広がっていた。束ねられた天鵞絨のカーテンの豪奢な光沢も相まって一枚の額縁のようだ。およそ現実感がなさすぎる。

「ピアノのある所で会いたいと約束しましたよね。嘘はついていませんよ」
「だからって、こんな場違いな所で弾けるわけないですって!」
「場違い? 何のことですか」

見た目に似合わず幼い仕草で首を傾げる柾樹には一切の悪気が感じられない。本当にただピアノのある所を選んだだけなのだ。
一歩、部屋に足を踏み入れた柾樹は両腕を広げて歓迎の意を示す。

「ここは今の俺の城です。響子さんは唯一のゲスト。何も気にせずに俺にもてなされてください」
「いや、気にします……こんなことならせめてもう少し、きちんとした服を着てくるんだった……」

大きな窓硝子はさながら姿見だ。夜に沈むそこに映る自分の服装は普段のオフィスカジュアルであり、洒落っ気は微塵もない。
自分自身と部屋の内装の落差に気後れして猫背気味になっていると、隣から肩を抱かれてぐいと正面を向かされる。

「響子さんはいつも綺麗ですよ」
「この状況だとお世辞にも受け取れませんよ」
「本当なのに……」

納得していない吐息を漏らす柾樹はグランドピアノの蓋を開く。
鍵盤すら光っているそれを直視したら目を焼かれそうだ。力無く目を泳がせていると、側面のブランドロゴが飛び込んできて響子は失神しかけた。
家やレッスン室にある見慣れたものではなく、国際コンクールでしかお目にかかれないであろうものだった。

「帰っていい?」
「何言ってるんですか。響子さんの演奏が聞きたくて、ここに移ったんですよ」

帰国後はホテル暮らしをしているという柾樹の言を思い出す。どこの世界に素人の演奏を聞くためだけに、世界最高峰のグランドピアノが設えられたホテルを選ぶ酔狂がいるというのだ。
ここにひとりいることだけは確かなようだが。

「仕方ないですね」

ふう、と息をついた柾樹は響子を座らせようとしていた演奏席に自分が腰掛ける。

「弾けるんですか?」
「とっておきの一曲です。遠慮深い響子さんのために捧げますので、笑わないでくださいよ」

姿勢よく構えた柾樹はそっと鍵盤に指を滑らせる。
堂々と胸を張ったその佇まいは、映画のワンシーンを思わせた。
何を弾くのだろう。クラシック? ジャズ? はたまたポップスのアレンジだろうか。

期待に息を詰めた響子の耳に飛び込んできたのは──誰もが知るあの曲。

「……ね、ネコ、踏ん………」
「あれ、間違えた。こうでしたっけ」
「うあ、あああ!?」

それはさながら、またたび嗅いで千鳥足なネコが、右へ左へとよろけながら潰れて踏まれた……とでも言った方がしっくりくるメロディで。
ラグジュアリーな室内には不釣り合いすぎるその稚拙な響きに、響子は笑うべきか怒るべきか悩んで、彼の名誉のためにも急いで演奏を止めさせるべく声を上げた。

「た、たた、高階さん! あの! わ、わたしも弾きたくなってき、ま、したー……なんて…………」

引き攣った頬で生徒よろしく手を上げれば、柾樹はたちまち演奏を止めた。

「良かった。このまま最後まで弾くことになったらどうしようかと思いましたよ」
「それはこっちの台詞ですよ……」

自分が弾いていないのに冷や汗をかいていた。確かにこの曲の後に弾くなら心理的ハードルはぐんと下がる。
しかし、ある意味自爆というか、力技というか……響子の演奏を聞くためなら手段を選ばない柾樹の手腕には脱帽だ。真似したくはないものだが。

柾樹が譲ってくれた席に座る。
ここまで熱望されては弾くしかない。
曲はもちろん──愛の挨拶だ。

すう、と息を吸い込み鍵盤に熱を乗せる。
ここはコンクール会場ではない。
聴衆は柾樹ひとりだけ。
自分の──柏木響子の演奏を望む、ただひとりのためだ。

たった二小節のイントロから始まる、歌うような主題。
囁きに誘うような、とろけるほどの甘い甘い旋律のエスコートが五線譜を追うごとに埋め尽くされていく。
登り詰めるような両手の掛け合いは、息継ぎごとに深くなるくちづけを思わせて──
一旦引いた熱情の波打ち際で、睫毛を震わせるように吐息が咲いた。

そして指が新たなフレーズへと向かう、その時。

「え」

隣に腰掛けた柾樹も鍵盤に指を滑らせた。
思わず彼を見上げるが、柾樹は視線だけでその先を促すと、メロディを奏で出す。
美しいばかりのフレーズの足元を支えるように、低く頼もしい音が寄り添ってくる。
一音一音、新たな音を奏でるたびに目の前が開けていくような、次々と宝石箱を開けていくような、めくるめく高揚感に響子の指が踊る。
それを追いかけ、はたまた導き、そして寄り添う柾樹の指から弾ける瑞々しい喜びに満ちた旋律が捉えて離さない。

息をするのも忘れかけるほどにメロディにのめり込んだ響子は、鍵盤から指を離した後も残る最後の一音を抱きしめ酔いしれていた。
左腕に感じる柾樹の温もりがじわりと溶け込んでいく感覚はアルコールにも似ていて、自然と瞼が下りてくる。

「…………響子さん」

柔らかいテノールが熱を帯びている。少し乱れた息遣いの合間に呼ばれたその響きがひたすらに切なくて、悩ましげに響子は顔を上げる。
彼女を見つめてくる柾樹は飾り棚に置かれた間接照明がちょうど逆光となって、表情を悟らせてくれなかった。

「……高階さん、ずるいです。あんなの弾いて油断させた後にいきなり連弾だなんて……っ」

弾む吐息の語尾が溶ける。
唇が塞がれていた。

熱い唇が押し付けられている。
演奏で息が上がっていた響子の胸は酸素を取り込もうと大きく喘ぐが、柾樹はそれを戒めるように後頭部をしっかりと抱えて離さない。

「……ふ、う、んん…………ッ」

なんとか鼻で呼吸しようとしても追いつかない。
片手で後頭部を、もう片方で背中を掻き抱かれてすっぽりと柾樹の腕に囚われた響子は、唯一自由になる指先で柾樹のシャツを掴んだ。
なめらかな肌触りのそれが皺を作るが、柾樹はお構い無しに響子をひたすら求め続ける。

「たかしなさ…………ん、ふうっ」

角度を変えるうちに深く重ねられた唇。
熱い舌までもが響子を翻弄する。
上顎をくすぐるような動きにたまらず鼻を鳴らすと、柾樹がぴたりと動きを止めた。
ゆっくりと離された唇に、ようやく待ちかねた酸素を取り込み過ぎた響子が軽く咳き込んだ。

「っ、すみません」
「も、なんなの……!」

涙目になった顔を背けて、けほけほと浅い咳を繰り返す響子の背を柾樹の大きな手がおずおずと撫でる。

「……想像以上に熱くて、息が詰まりそうで、切なくて……夢みたいです」

背を撫でながらも抱擁にシフトしていく腕の動きに、ぎくりと身を強ばらせた響子だが、柾樹は唇を奪うことはせずにひたすら響子を抱きしめて離さない。
時折、すり、と撫であげられる背中から感じる甘い疼きから気を逸らそうと、響子は口を開いた。

「結局……弾けるんですね?」
「この一曲だけです。猫踏んじゃったをカウントしていいなら二曲になりますけど」
「あ、はは……」

あまりに落差の激しい二曲の出来に、どちらをどうカウントすべきか迷う。
乾いた笑いで答えていると、肩口に額が寄せられた。

「10年前の響子さんの演奏は天啓でした」
「て、天啓?」

響子とて、好みのフレーズに出会った時は胸が騒ぐものの、天啓とまで称するような出会いは未だかつて無い。
それをさらりと断言できる柾樹の感性にたじろぎつつも、こうも手放しで褒めそやされるとくすぐったい。

「広がるだけが響きでは無い。閉じ込めて離さない。無音の中に生まれる自分だけの音、窒息しそうな旋律に身を投げ、溺れることの幸せ……響子さんが教えてくれたことです」
「い、いや、私は弾いただけです。貴方の感性が優れているからその解釈が生まれたのであって、決して私の才能ではありません」

陶酔しきった声音で語られる、睦言にも似た告白は沸騰しそうに熱い。これを無防備に受け取っては大火傷しかねないと言葉で冷ましているものの、まさに焼け石に水だ。

「……俺のアイコン、無響室と言ったでしょう」
「んん? あ、あのグレーの」

唐突な話題転換に目が回りかけた。振り落とされまいと無意識に手のひらに爪を立てる。

「元々、あれは響子さんの演奏を閉じ込めたくて作ったんです。響きに必要な一切を遮断して、音そのものを捉える材質で出来た壁──音の鳥籠です」

とろりと広がる甘いばかりの囁きを、ひと匙だけ落とされた影が確かに侵食していく。
柾樹の腕の中で響子は小さく身震いした。
それを知ってか知らずか、柾樹は覆い被さるように深く抱き込むと、耳に唇を寄せる。吐息が吹き込まれて響子は別の意味で身を捩った。

「逃げないで」
「あ、あの、ちょっとこわい……」
「大丈夫ですよ、あくまで音の話です。響子さんを閉じ込めたりなんてしません」

でも怯えてる響子さんも可愛いですね、と静かに笑った柾樹の唇からダイレクトに伝わる吐息に、響子の心臓が乱れたリズムを奏で始める。

「響子さんを知って、俺の世界は変わったんです。今だって、見たことないあなたの表情、声、仕草……すべてが俺の中に蓄積されて、俺を形作っている」

柾樹は唇を響子の耳に押し当てたまま、思いの丈を語り続ける。
体の中で響いてやまないその甘い低音から逃れようと、目をつぶる響子の腰がぴくりと跳ねた。
それを宥めるようにやんわりとさすった厚い手のひらが、確かな欲を孕んでいる。
響子はかすかに熱い息を漏らしたが、すぐに唇を噛み締めて手のひらに爪を立てた。

「だめです、無かったことにさせない」

むくりと顔を上げた柾樹が、響子の唇を撫でるように奪う。
握り拳をほどくように割り入れた手は、ひと回り小さい手のひらの薄さを確認するようにしっかりと指を絡めた。

「同じように、俺に感化される響子さんが見たい。俺に乱される響子さんが、俺を求めてくれる響子さんが……」

歌うように連ねられる言葉の数々に、呼吸が浅くなってくる。
は、は、と胸だけで呼吸を繰り返す鼓動は逃げ出しそうなほどに乱れて、苦しさばかりが募る。
否、苦しいだけではない。息もつけないほどの、甘く切ない囁きを歌い上げた旋律。
これを奏でた時の高揚感を、響子は痛いほど知っていた。

「俺を、溺れさせてくれますか」

ほとんど吐息だけになった囁きに、かすかに頷いた時──響子の中で、何かが弾けた。
< 13 / 15 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop