婚約破棄されたら「血みどろ騎士」に求婚されました
節くれ立った手がずるりと口元へ落ちると、ほんのり赤く染まった彼の目元が露わになり、アニスは初めて見る表情に思わず見入ってしまった。
「俺のことを考えているというのは」
「あ……はい。自分でも、意外なのですが……パトリック様との婚約を解消されたショックがどこかに吹き飛んでしまうぐらいには、ルディ様のことばかり、……薄情な人間ですよね」
自嘲気味に笑って見せれば、ルディの大きな手がアニスの頬を撫でる。彼の手のひらは、アニスの体温と同じぐらい熱かった。
「何を言う。殿下との一件において、貴女に非はない。陛下もそう仰ったはずだろう。何より俺の事ばかり考えるよう仕向けてるのは他でもない俺だぞ」
「え!? でも、あの、つい最近までわたくし、ほとんど王太子妃として見なされていて、国と民のために尽くすのが当然だったのに、何もかも忘れて、こ、こんなに浮かれてしまって」
ああ、こんなことを言うつもりではと、アニスは勝手に動く口を押さえる。
パトリックが王太子の資格をはく奪されたことについて、アニスは未だに漠然とした後ろめたさを感じていた。自分にはもう関係のないことだと頭では分かっているのに、ルディに心を傾けていくにつれて、過去の自分が──王太子妃になるはずだった自分が、不満げな顔をするのだ。
八歳で王子の婚約者となって、十三年。全ての時間とあらゆる自由を捧げてきたアニスの心は、思っていたよりも消耗していたのかもしれない。
こんなにも努力をしたのに、どうしてパトリックの我儘一つで全て無かったことにされてしまうの、と。
こんなことになるなら、最初から選ばないでほしかったと。
最初からこの人と恋に落ちていたら、あんなに窮屈な時間を過ごさずに済んだのにと。
「ルディ様と過ごしていると、今までの暮らしがとても、とても……苦しかったんだと、思えてしまって。あんな風に手放すつもりだったなら、もっと早くしてくれたら良かったのに──ああ、嫌。急にごめんなさい、おかしいわ、わたくし。子供みたい……」
そう言いながら、アニスは目の前のルディに縋ってしまう。額をすり寄せれば、彼は当然のように抱擁を強めて、頭を撫でてくれる。その慈しむような手つきに、アニスはすんと鼻を鳴らした。
「アニス」
「……はい」
「俺はお世辞にも聞き上手とは言えないだろうが、何でも話してくれて良い。俺に対する文句でも良いし、家族や友人に聞かれると不味い愚痴でもな」
「……怒りませんか?」
「誰かに怒られたことが?」
「幼い頃、教育係に」
「なるほど。いつも皆のお手本に、ってやつか」
ルディはかぶりを振ると、アニスの背中を優しく摩る。大きな手のひらを何度か上下させた後、彼はアニスの顎をそっと掬い上げて微笑んだ。
「誰にも言わないし、怒らないから。俺に甘えてくれ、アニス。今まで甘えられなかった分も」
濡れた目尻に口付けられたアニスは、彼の嬉しそうな笑みを見上げ、自身もその顎に唇を押し当てる。
不意打ちを食らったルディが呆けているのを見て、アニスはくすくすと控えめに笑った。
「教育係に叱られてしまったのは、兄の頬にキスをしたからなのです。はしたないって……でもルディ様には、してもよろしいのですよね……?」
「…………しまったな……無邪気な悪魔を呼び起こしたような気分だ」
「まぁ」
「だがアニス。そんな可愛い悪戯をするぐらいなら、こちらにしてくれ」
笑っていた唇を親指で撫でられ、いとも簡単にアニスは大人しくなる。そのまま親指の先を口内へと軽く押し込んだルディは、羞恥と混乱に染まるアニスの顔をじっくりと眺めて囁いた。
「……いいか?」
声を封じられたまま小さく頷けば、ルディが少しだけ顔を傾けて、優しく唇を重ねる。
単に抱き締められるよりも、更に濃くなった彼の匂い。腰に回された手の熱さ。うっすらと開いた熱っぽい瞳。何もかもにクラクラとしてしまい、アニスはつい顎を引く。
すると逃げるなとばかりに後頭部を引き寄せられ、再び深く口付けられた。味わうように何度も唇を食まれる傍ら、ぐいと両脚を掬われて横抱きにされてしまえば、もはやされるがままだった。
いつの間にか彼の首に腕を回し、うっとりとキスに応じていたアニスは、公爵邸に着く頃になってようやく我に返ったのだった。
「俺のことを考えているというのは」
「あ……はい。自分でも、意外なのですが……パトリック様との婚約を解消されたショックがどこかに吹き飛んでしまうぐらいには、ルディ様のことばかり、……薄情な人間ですよね」
自嘲気味に笑って見せれば、ルディの大きな手がアニスの頬を撫でる。彼の手のひらは、アニスの体温と同じぐらい熱かった。
「何を言う。殿下との一件において、貴女に非はない。陛下もそう仰ったはずだろう。何より俺の事ばかり考えるよう仕向けてるのは他でもない俺だぞ」
「え!? でも、あの、つい最近までわたくし、ほとんど王太子妃として見なされていて、国と民のために尽くすのが当然だったのに、何もかも忘れて、こ、こんなに浮かれてしまって」
ああ、こんなことを言うつもりではと、アニスは勝手に動く口を押さえる。
パトリックが王太子の資格をはく奪されたことについて、アニスは未だに漠然とした後ろめたさを感じていた。自分にはもう関係のないことだと頭では分かっているのに、ルディに心を傾けていくにつれて、過去の自分が──王太子妃になるはずだった自分が、不満げな顔をするのだ。
八歳で王子の婚約者となって、十三年。全ての時間とあらゆる自由を捧げてきたアニスの心は、思っていたよりも消耗していたのかもしれない。
こんなにも努力をしたのに、どうしてパトリックの我儘一つで全て無かったことにされてしまうの、と。
こんなことになるなら、最初から選ばないでほしかったと。
最初からこの人と恋に落ちていたら、あんなに窮屈な時間を過ごさずに済んだのにと。
「ルディ様と過ごしていると、今までの暮らしがとても、とても……苦しかったんだと、思えてしまって。あんな風に手放すつもりだったなら、もっと早くしてくれたら良かったのに──ああ、嫌。急にごめんなさい、おかしいわ、わたくし。子供みたい……」
そう言いながら、アニスは目の前のルディに縋ってしまう。額をすり寄せれば、彼は当然のように抱擁を強めて、頭を撫でてくれる。その慈しむような手つきに、アニスはすんと鼻を鳴らした。
「アニス」
「……はい」
「俺はお世辞にも聞き上手とは言えないだろうが、何でも話してくれて良い。俺に対する文句でも良いし、家族や友人に聞かれると不味い愚痴でもな」
「……怒りませんか?」
「誰かに怒られたことが?」
「幼い頃、教育係に」
「なるほど。いつも皆のお手本に、ってやつか」
ルディはかぶりを振ると、アニスの背中を優しく摩る。大きな手のひらを何度か上下させた後、彼はアニスの顎をそっと掬い上げて微笑んだ。
「誰にも言わないし、怒らないから。俺に甘えてくれ、アニス。今まで甘えられなかった分も」
濡れた目尻に口付けられたアニスは、彼の嬉しそうな笑みを見上げ、自身もその顎に唇を押し当てる。
不意打ちを食らったルディが呆けているのを見て、アニスはくすくすと控えめに笑った。
「教育係に叱られてしまったのは、兄の頬にキスをしたからなのです。はしたないって……でもルディ様には、してもよろしいのですよね……?」
「…………しまったな……無邪気な悪魔を呼び起こしたような気分だ」
「まぁ」
「だがアニス。そんな可愛い悪戯をするぐらいなら、こちらにしてくれ」
笑っていた唇を親指で撫でられ、いとも簡単にアニスは大人しくなる。そのまま親指の先を口内へと軽く押し込んだルディは、羞恥と混乱に染まるアニスの顔をじっくりと眺めて囁いた。
「……いいか?」
声を封じられたまま小さく頷けば、ルディが少しだけ顔を傾けて、優しく唇を重ねる。
単に抱き締められるよりも、更に濃くなった彼の匂い。腰に回された手の熱さ。うっすらと開いた熱っぽい瞳。何もかもにクラクラとしてしまい、アニスはつい顎を引く。
すると逃げるなとばかりに後頭部を引き寄せられ、再び深く口付けられた。味わうように何度も唇を食まれる傍ら、ぐいと両脚を掬われて横抱きにされてしまえば、もはやされるがままだった。
いつの間にか彼の首に腕を回し、うっとりとキスに応じていたアニスは、公爵邸に着く頃になってようやく我に返ったのだった。